2005年09月15日

加守田章二

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 加守田章二は「光りもの」が苦手だったんだな。光沢のある釉薬の晴れがましさが。
 ガサゴソとした乾いた土肌。備前などによくある土味や媚びといったものが入り込めない意思の風景。加守田を現代陶芸の祖たらしめているのはこのテクスチャーの発見だ。そしてそれを生かす文様と面。さらにはそれらの面を生かす形。
 加守田の作品はそれ自体で完結しているので「用」という要素は薄い。しかしあくまでも器でありつづけていて、その一線は決して越えていない。それがおびただしいほどの亜流を生み出している原因とも思える。一方その線を越えた八木一夫には亜流は生まれにくい。
 加守田章二展。東京駅のステーションギャラリーにて10月23日まで。

投稿 : shuzo MARUTA : 2005年09月15日 23:38
コメント

また、自説を言っちゃうよ。だって、60年代に加守田さんは京都にいたでしょ? その時、京大西部講堂では土方巽が土俗的なアバンギャルド公演をやってて、鴨川では唐十郎が赤テントをはって麿赤児さんがオチンチン出して踊ってた。その背景には、マルセル・デユシャンやらメロポンやら、シュールとダダの渦巻きがあった。加守田さんの土俗的なテキスチャ−?とか、用としての焼物の中にいたくないという感情とかも、そんな時代状況とは無縁ではなかったと思うんです。そうは思いませんか・・・。

コメント by: az+usa : 2005年09月23日 01:55

P.S.
でも丸田君の言うように、なぜ「器である」ことにこだわり続けたんだろう??? もうちょっと潔く生きられなかったのかな、と感想しますが。

コメント by: az+usa : 2005年09月23日 09:52

でましたね!。 加守田章二。 今、東京ですか。

通行人が誰だか、今頃になって、何となく 分かりました(違ってるかも知れないけれど!)。

コメント by: 埼玉の暇あ人 : 2005年09月26日 04:04

展覧会の図録の年表を見たんですが彼が京都に住んだ時期は1952年から1956年までの学生時代ですね(京都市立美大)。もともと生まれが大阪ですから京都にも縁があったことでしょう。
器しか作らなかったということは彼が工芸家だったということですね。工芸の歴史は模倣の歴史でもあります。模倣がなんら非難されない。そこで彼のそっくりさんがいまだにたくさんいらっしゃるわけです。

コメント by: shuzo MARUTA : 2005年09月27日 23:43

カモタさんの経歴認識について誤りがあったことは申し訳ありません(年代認識でいえば誤りでもなかったと思うけど)。
はっきり言ってカモタさんについては、もともと興味を感じていた人でもないので、言葉が虚ろになってしまったのかもしれない。僕は工芸史を知らないから。 
でも「工芸の歴史が模倣の歴史である」という丸田君の言葉遣いに、ある種の美しい意志を感じました(だけど、そんなこと考えたら食えなくなっちゃうかもよ)。
こんな話だったら永井さんも入ってくればいいのにね、とも思いましたが。

コメント by: az+usa : 2005年09月30日 02:09

酔っ払いついでに。永井さんの作品はいいと思うけど。あの人だって、なぜ不自由表現である焼き物でなければいけなかったのかが、僕にはよくわからない。
僕があるダンス表現のことを、ちょっと冗談めかしてしゃべった時があって。そしたら「なに言ってるの?
舞踏は命がけなんだから!」と言われてしまった。僕は「永井さんって冗談の通じないマジメな人」と思ったけど。そうなんだろうか?
おーーーい、出てこいよ。永井さん!

コメント by: az+usa : 2005年09月30日 02:33