ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の作品に「停車場にて」という短編がある(残念ながら青空文庫には入ってなかった)。列車で護送されてきた殺人犯が熊本の駅で被害者の遺族である妻子と対面する場面。群集が見守る中でそのとき何が起きたか。
父親を殺された幼子の目。残された者の悲しみ。犯人を悔悟に導いたのは母親に背負われた子供の目だった。
弱い者ほど強がりを言い、臆病な者ほどときに狂暴になる。愚かでひ弱な人間がくり返す過ちと悔恨。当事者だけでなく、実は我々すべてがそんなどうしようもなく悲しい生き物なのだ。
加害者と遺族がともに救われる道があるとするならば、この人間という生き物が持つどうしようもない悲しみへの共感以外にはないのではなかろうか。
光市事件の裁判は終わったがこのままでは双方ともに哀れだ。本村さんの悲しみは犯人を死刑にすることで本当に癒されるだろうか。怒りの連鎖はどこかで誰かが断ち切らねばならない。まだ間に合う。彼には怒りではなく自分の悲しみを素直に犯人に伝えてもらいたい。