シリンジェ村はセルチュク近郊の小村。なだらかな山に囲まれ、オリーブ、みかん、ぶどうなどが栽培されている。店には搾ったばかりのオリーブオイルや手作りの石鹸、それにトルコでは珍しいワインなどもあった。ここのワインは力強く野性的(というより荒っぽいといったほうがいいかも)な味。旅行中でもあり試飲だけで買うのはやめた。
カメラの前では決まって肩を組むトルコの子供たち。日本ではとんと見かけなくなったポーズ。田舎町でもサッカーは人気があり、ナカタ、ナカムラは彼らも知っていた。
いよいよ衆議院議員選挙が公示された。小泉政治を終わらせるために念力を込めて票を投じたい。
セルチュクの市内では水路橋と思われる遺跡の上でコウノトリが巣づくりをしていた。すぐ下には噴水がありカフェーのテーブルが取り囲んでいる。つまり一日中町の人たちに見守られながら営巣しているわけだ。雛はもうかなり大きくなっていて巣立ちも近いと思われた。
ヨハネで思い出すのはギュスターヴ・モローが描いたサロメ。絵のタイトルは「出現」だったか。たしか学生時代に開かれたモロー展で見た記憶がある(竹橋の近代美術館?)。聖書に題材をとった恐ろしい愛憎劇の中でサロメの前にヨハネの首が現れる場面。絢爛たる色彩によって残酷さは消え、官能的?な宗教画のようだった。
写真は聖ヨハネ教会の前庭に咲いていたバラ。サロメの物語がどこまで史実かは分からないが、ストーリーを重ね合わせると、この教会にはまことにふさわしい花に思えた。
エフェス遺跡から3kmほど離れたセルチュクの町にも遺跡、史跡がいくつか残っている。ここは聖ヨハネ教会。キリストの死後ヨハネはマリアとともにこの地に移り晩年を過ごしたという。残念ながら今は列柱、礎石、大理石モザイク、それにヨハネの墓所が残っているのみ。ここは高台になっていて遠くにはうっすらとエーゲ海が見えた。エフェス近郊には「マリアの家」というのもあるが真偽のほどは分からない。
ローマ期の美術というのはギリシャのイミテーションばかりだと思っていたがそれほど単純ではないようだ。たしかに模倣が様式と化したような眠い彫刻も多いが、なかには写真のようなリアリズム彫刻もある。ギリシャ美術が目指したイデア、神、美、理想といったものは薄れ、代わってここにいるのは泥臭い生身の人間。歴史は単純には語れない。
遺跡内のところどころに咲いていた花。写真をたよりに検索したらセイヨウニンジンボク(Vitex agunus-castus)ということが分かった。古代ギリシャ時代から精神安定作用のある薬草として広く使われていたらしい。都は滅んでも花は生きている。
キリストの生母マリアは神なのかそれとも人なのか。西暦431年に開かれたエフェス公会議ではマリアは神の母(生神母)と定められたという。この決定の背景にはこの地に根付いていたアルテミス信仰が影響したはずだとJ・キャンベルは述べている(「神話の力」)。
考古学博物館内のアルテミス女神像。やはりたくさんの卵?を下げ、足の周りには鹿などのレリーフ。
エフェスでやたらと目に付くのが卵。写真のような柱頭だけでなく梁にも天井にも、とにかくいたるところ卵だらけ。それはエフェスがキリスト教以前からアルテミス信仰(豊饒の女神)の地であったことによる。
エフェス遺跡のハイライトのひとつ、ケルスス図書館のファサード。ローマ建築にこれほど格調高いものがあるとは思わなかった。これには驚いた。
エフェスはエーゲ海沿岸のローマ都市遺跡。神殿、劇場、競技場、図書館、それから住宅、浴場、さらには娼館、トイレなどが残っている。写真はオデオンと呼ばれる小劇場。都市の代表者会議や音楽コンサートなどに使われていたらしい。
見学に訪れていたのは10人前後の団体客ばかり。各国語のガイドの声があちこちから聞こえていた。フランス語、イタリア語、ドイツ語、韓国語。ただ日本語はなかった。
陽が落ちたマリーナにはヨットの帆柱によく似た照明灯が並んでいる。反射板を使った間接照明でヨットの帆やかもめの翼を連想させるデザイン。たしか東京でも見た覚えがあるが、どこだったか思い出せない。
古風な雰囲気を持つ大型の木造ヨット。こうした船はグループでチャーター(レンタル)するのに使われていて、料金は一人一日3千円ほど。この船だったら20人くらいは乗れそうだ。なんだったらこのまま世界一周でもできるかも。
コンヤから夜行バスで10時間(のはずが、トラブルが重なって実際には13時間かかった)。ようやく着いたのはエーゲ海沿岸の町マルマリス。ここからフェリーでロードス島(ギリシャ)へ渡る予定だったのにバスが遅れたため乗りそこねてしまった。おかげでその後の旅の計画が狂ってしまったが、まあよくあること。
マルマリスはヨットやクルーザーが港にずらりと並ぶ典型的なリゾート都市。初めて見るエーゲ海はたしかにエメラルド色。水も澄んでいて小魚も多い。
こちらは人の顔を持った鳥。人面鳥とでもいうのかな。青は二種類あって鳥のからだ部分は下絵付け。周りの淡い青は色釉。どこへいってもこの淡いブルーのほうがはるかに多く使われている。
カラタイ博物館は13世紀半ばに作られた神学校を改装したもので、タイルや陶器だけが集められている。タイルには人物、鳥、花、動物などが手慣れた筆で描かれていて色もいい。
ルーミーは親鸞と同時代の人。イスラムの歴史の中ではスーフィーの系譜に連なる宗教改革者といえると思う。イスラム法(コーラン)によって人を外側から縛るのではなく、自己の精神的な充実をめざす。その意味では禅との類似性を感じるし、セマー(旋舞の儀式)からは踊念仏を連想してしまう。
「寛容は海のごとくあれ」ルーミーのこの言葉はあらゆる原理主義の対極にある。
コンヤはアナトリアの中心都市のひとつであり、旋舞で知られるメヴレヴィー教団発祥の地でもある。メヴラーナ・ジェラレディン・ルーミー(1207〜1273)を祖とするこの教団は20世紀の初めに解散しているが今なお人気が高いようで、市内のメヴラーナ博物館は参拝の人々で混雑していた。ここは霊廟でもあり、中にはルーミーの棺もある。
コンヤではセマーと呼ばれる旋舞を是非見たいと思っていたのだが、残念ながらこの儀式は12月のメヴラーナ週間以外は行われないとのことでDVDだけ買ってきた。(しかし10日ほど後にイスタンブールで目撃することができた。後述します。)
写真は博物館内の天井アーチ。複雑、精緻な装飾が見事。
教会でも礼拝堂以外は何の装飾もなく削りあとがそのままになっている。これは長さ10メートルくらいありそうな食卓テーブル。使い込まれた石がテカリをおびている。
キリスト教会内部には専門の絵師によるフレスコ画などもあるが保存状態は良くない。それよりひと目で素人の筆とわかるプリミティブな線描が面白い。この赤の顔料は弁柄なのか朱なのか分からないが、鮮やかに残っている。
洞くつめぐりの合間に足元を見ればこんな花も咲いていた。カラカラに乾いた土の上で小ぶりな花をいくつも咲かせている。おそらく夜の間に夜露、朝露をたくみに取り入れているのだろう。茎も葉も細く、花がなければ枯草と間違えてしまうかもしれない。
乾燥した内陸性気候で日差しが強く、日中は強烈に暑い。この暑さを体験してみれば岩山に掘られた穴の意味が良く分かる。荒涼とした大地に大きな木はなく、石を切り出したりレンガを積み上げて家を作るより岩を掘ったほうがはるかに手っ取り早かったのだろう。もちろん敵に備えるとか、あるいは貧しさということもあったと思うが。
都合のいいことにこの辺の岩は火山灰が固まったような比較的やわらかいものが多い。これなら素人でも掘れそうだ。かくして住まい、倉庫、家畜小屋、あるいは集会所、教会として無数の岩穴が掘られ、岩山の風化とともにそれらが剥き出しになって現在の景観を作っている。
この山は集落というより要塞のように見えた。悲しいことに数年前、この岩山をロッククライミングで登ろうとした若者が滑落死したとのこと。日本人だったらしい。
サフランボルからアンカラを経由して8時間。中部アナトリア、カッパドキア地方のギヨレメ村。これまで写真や映像でしか見たことがなかったが、実際に来てみるとやっぱり異様。町並みの中にこんな岩がニョキニョキと突き出ている。子供のころの砂遊びの光景がその何百倍ものスケールで目の前に現れたようで、唖然とするばかり。