一般的に海に近いほど猫の数は増えるようだ。内陸のカッパドキアでは一匹も見なかったのに海辺のイスタンブールではそこらじゅうにいる。食糧事情によるのか、それとも気候のせいなのか。グランド・バザールの隣ベヤズット・ジャミィにて。
メヴラーナ派の墓石は上に大きな帽子がのっているのが特徴。気をつけて見ればイスタンブール中にこのタイプの墓がかなりあるので、この宗派は広く普及していたものと思われる。しかしコンヤのところでも述べたとおり1920年代に教団は解散させられている。トルコの近代化(ヨーロッパ化)にとってイスラムは障害になると考えられたのだろう。ただ政教分離はともかく、教団まで解散させる必要があったのかどうか。
ひとことも話さなくてもその存在だけで場に力を与えうる人。儀式のあいだも黒服を脱ぐことはなく舞手の動きをじっと見ているだけ。この人が実はセマーの中心なのだ。傍らの信者の姿を見れば右手は心臓の上、左手はおなかのあたりに置いて頭を下げている。これが祈りのかたちのようだ。
舞手たちはセマーの前後には両手を肩に置いて気持ちと体を静める。ダンスの後でもだれもよろける人はいない。座禅は足を組むがセマーは腕を組むんだな。ちなみに舞手のことはセマーゼンと呼ぶ。これってただの偶然?
コンヤでは見ることができなかったメヴレヴィー教団のセマー(旋舞の儀式)をイスタンブールで見ることができた。15人ほどの楽団のゆっくりした歌とメロディーに合わせて舞手(修行僧)がぐるぐる回っていく。右の手のひらは上(天)に向け、左は下(地)、頭はわずかに右に傾けている。回り方は左足を軸にして一回転づつ、回転の方向は上から見て反時計回り。
回転とともにスカートがたなびき、大きな花がいくつも咲いたように華やぐ。見ているぶんにはアイススケートのようでもあり、あるいは遊園地のメリーゴーラウンドのようでもあるが舞手のほうは目を閉じて没我状態。日本でいえば空也上人、一遍上人が広めた踊念仏に近いのではないかと思われた。ちなみに開祖のメヴラーナ・ジェラレディン・ルーミー(1207〜1273)は一遍(1239〜1289)と同時代の人。
最後に登場したこの人は他のダンサーとはずいぶん違っていた。出てきたときから目は一点を見つめたままでニコリともしない。ときには目を閉じて踊っていた。まるで踊りの求道者。気楽な観光客気分でいたらパシンと撥ね返されるような気品と気迫があった。
男社会のトルコの中でベリーダンサーは女の中の女、希望の星でもあって女優や歌手として活躍している人も多いと聞いた。当然社会的地位も高い。この人はファッションモデルとしても一流になれそうだし、アクション映画のヒロインでもおかしくない。もしかしたらこの一座の座長なのかも。
ベリー・ダンスというのは曲芸のような踊りかと思っていたらぜんぜん違っていた。もっともここは観光客を相手にした会場なので本来の踊りとはだいぶ違うのかもしれないが。バックにいる楽団の太鼓のリズムに合わせて激しく腰を振る。そのとき上体はまったくブレない。甲高い太鼓の音色とハイヒールを別にすれば踊りそのものはハワイのフラダンスによく似ている。こうした踊り手が4人ほど登場し、その間にはトルコ各地の民族舞踊が披露される。いうなれば「トルコ民族芸能ショー」でもあるんだな。食事付きでもちろん酒も出る。
日本にもこういうクラブがあったら結構繁盛するのではなかろうか。沖縄から北海道までの歌や踊りをコンパクトにまとめ、お色気とユーモアをちょこっと付け加える。日比谷、赤坂あたりにあるといいかも。
再びトルコの写真をいくつか。これはイスタンブール新市街の中心部に建設中のビル。赤く見えているところは穴を開けて軽くしたレンガブロック。木と板で支えながら床を一階づつ作り、それらをマッチ棒のように細い柱で支えている。このビルに限らずトルコではこれが一般的な建築方法。耐震基準なんてものは無いようだ。1999年には2度にわたって大地震が起き、数万人の犠牲者が出ているというのにこれでいいのだろうか。トルコ大地震の写真はここ。
いつのまにか朝晩はめっきり冷えるようになった。北の地方ではそろそろストーブの準備を始めているかもしれない。
涼しくなったからというわけでもないが、このところ本ばかり読んでいる。トルコ旅行中は本を持っていかなかったので夜が長かったこと。イスラム国なので酒も出ないところが多く、ほとほと退屈してしまった。日本語が読めることの有り難さよ。
生まれた町のこと。家族のこと(ディランの祖母はトルコ出身だということを初めて知った)。ニューヨークでの暮らし。ジョン・ハモンドとの出会い。「わたしは嘘のなさを評価する」(ハモンド)。ボブ・ディランという芸名を選んだいきさつ。ウディー・ガスリーとのつながり。一人のミュージシャンの誕生にすぐそばで立ち会っているようで、とにかく面白い。
「OH MERCY」はダニエル・ラノワとディランとの幸福な共同作業から生まれたものだと思っていたら内実はまるで違っていた。かなりの難産だったようだ。あらためて聴きなおしてみて緊張感のある音のわけが少しは分かったような気がした。
イスタンブールのレストランで食べた料理を記憶をたよりに作ってみた。
1.にんにくとタマネギを炒める。
2.ひき肉(鳥、豚、牛なんでも良い)を入れてさらに炒める。
3.ナス、トマトを加え、弱火で30分ほど煮る。
味付けは塩、コショウ、オレガノなど好みで。水はいっさい加えない。
出来たのは何のことはないナス入りのミートソースと呼べそうなもの。でもウマイ。これにチーズを散らしてオーブンで焼けばナスのグラタン。肉を入れず野菜だけで作ればラタトゥーユか。要するにすべて地中海料理。
材料はありあわせ、分量も適当。ただトマトの量が増えればそれだけ地中海度が高まる。パトゥルジャンPatlicanとはトルコ語でナスのこと。
築地で見かけたカワサキのW650。ずいぶんきれいにレストアされてるなあ、と思っていたらとんだ認識不足だった。これは1999年に発売された新型のWとのこと。旧型のW(W1、W3)は1970年ころだったか。鉄の塊のように重心が低く、小回りはきかなかったが楽しいオートバイだった。この新型は先代の雰囲気をよく残しているが細部を見るとやはり最新の技術で作られていることが分かる。ウーン、ちとそそられる。
わずか四日間だけの「環の會」展示会でしたが、おかげさまで無事(地震、洪水にあうこともなく)終了することができました。ご来場の皆様、どうもありがとうございました。次回の展示会は未定ですが今回の気持ちのいい流れをさらに大きくしていきたいと思っています。またよろしくお願い致します。
久しぶりに首都高速を走ったらまた新しい高層ビルが建っていた。六本木ヒルズの先、全面がガラスで覆われている。これで長周期震動に耐えられるのかどうか。遠くから眺めるだけにして、なるべく近づきたくないな。
加守田章二は「光りもの」が苦手だったんだな。光沢のある釉薬の晴れがましさが。
ガサゴソとした乾いた土肌。備前などによくある土味や媚びといったものが入り込めない意思の風景。加守田を現代陶芸の祖たらしめているのはこのテクスチャーの発見だ。そしてそれを生かす文様と面。さらにはそれらの面を生かす形。
加守田の作品はそれ自体で完結しているので「用」という要素は薄い。しかしあくまでも器でありつづけていて、その一線は決して越えていない。それがおびただしいほどの亜流を生み出している原因とも思える。一方その線を越えた八木一夫には亜流は生まれにくい。
加守田章二展。東京駅のステーションギャラリーにて10月23日まで。
火曜日から3人展。ジャンルの違う人たちとの展示会なので気持ちがラク。ただ期間が短く終了時刻も早いので来場者は少ないかもしれない。ちょっと心配。かなり不安。
なんと愚かな選択か。選挙区、比例区を問わず、今回小泉自民党に投票した人は今日のこの日をしっかりと覚えておいてもらいたい。これがどういう結果をもたらすのか、すべては投票者の責任だから。
それにしてもまたこの先数ヶ月、あるいは数年にもわたって狡猾な小泉の日本語を聞くことになるかと思うと気分は暗澹としてくる。死んだ言葉はそれを聞く人をも汚染する。
というわけで今後はテレビではサッカー中継だけしか見ないことに決めたのだ。
「生きているもの、死んでいるもの」 茨木のり子
生きているリンゴ 死んでいるリンゴ
それをどうして区別しよう
籠を下げて 明るい店さきにたって
生きている料理 死んでいる料理
それをどうして味分けよう
ろばたで 峠で レストランで
生きている心 死んでいる心
それをどうして聴き分けよう
はばたく気配や 深い沈黙 ひびかぬ暗さを
生きている心 死んでいる心
それをどうしてつきとめよう
二人が仲良く酔いどれて もつれていくのを
生きている国 死んでいる国
それをどうして見破ろう
似たりよったりの虐殺の今日から
生きているもの 死んでいるもの
ふたつは寄り添い 一緒に並ぶ
いつでも どこでも 姿をくらまし
姿をくらまし
色数は少なく、2種類の青に茶と赤。緑も入っていない。濃い青の部分は下絵なので筆あとが見える。また赤は朱に近く、その部分だけが盛り上がっている。おそらくこの色に焼き上がる土を使っているのだと思う。16世紀半ばころのイズニックタイルなので当然伊万里より古い。もしかしたら柿右衛門の赤はこの色を参考にしたのかもしれない。
リュステム・パシャ・ジャミィは内外装にイズニックタイルがふんだんに使われていてまるでタイル博物館のようだ。写真は入り口付近にある高さ2メートルほどの組み合わせタイル。図案化された草花文の大作だが残念ながら補修されていて図柄が合っていない部分がある(右下2枚)。
スレイマニエ・ジャミィから歩いて15分ほど。エジプシャン・バザールから続く雑踏の中にリュステム・パシャ・ジャミィはあった。ここもスィナンの設計。中庭はなく(もしかしたらバザールに占拠されたのかも)、入り口はバザールの中の狭い階段。探すのに苦労した。しかし中に入れば別世界。小規模ながら白を基調としたドームは珠玉のように美しい。
再びイスタンブール。ここは建築家ミマール・スィナンの代表作のひとつ、スルタン・スレイマニエ・ジャミィ(モスク)。ブルー・モスク(スィナンの弟子の設計)とくらべるとドームの直径は1メートル小さく高さは逆に10メートル高い。窓が小さいせいで内部は暗いが全体のバランス、細部の完成度ともにこちらのほうが優れている。完成は1557年。
7月7日、セルチュクからイスタンブールまでまたバスで10時間。途中ベルガマ(ペルガモン)やトロイなどもあったが気分が乗らずすべてパス。この辺は一人旅の気楽さ。足の向くままなんとやら。
ブルサを過ぎてからバスは幹線道路を離れ港へ。そのままフェリーに乗り込んでしまった。トルコ北西部の海岸線は入江が深いのでこれが通常のルートなのかもしれない。船の上では乗客が投げるパンくずをめがけてかもめが追ってくる。飛んでいるかもめをこれほど近くで見たのは初めて。手を伸ばせば羽に届いたかも。
ザクロの原産地はペルシャとか。日本に入ってきたのは10世紀ころのことらしい。赤紫色のガラス玉のような実をぽろぽろとかき出しながら口に入れたのはいつのことだったろう。酸っぱくて種が意外と大きかったな。
トルコは夏時間を採用しているので午後6時ごろになってもまだまだ日差しが強い。右のほうに積んであるのは瓢箪の親戚みたいな実というか果実。瓢箪と同じように乾燥させて肩のほうに穴を開け、花入れとして売られていた。
下にあるごみ箱へ飛び降りようとしている猫にカメラを向けたら逆ににらまれてしまった。「ン?よそモンだにゃあ。邪魔すんじゃねえーよ。」「スンマセン。」
1920年代にトルコは隣国ギリシャと戦争をしている。この村にはもともとギリシャ人が住んでいたのだが戦後処理のひとつとしてギリシャとの間で住民交換が行われたとのこと。つまりここの村人がギリシャに移され、かわりにギリシャのテッサロニキに住んでいたトルコ人がこの村に移住してきたという。強引なやり方にも思えるが旧ユーゴスラビアで起きた事などを思えばはるかに平和的だったといえる。
「郵政改革PRのために、国と特別契約を結んだ竹中平蔵郵政民営化担当大臣の知人が経営するPR会社が提出したPR企画書の中に、郵政改革PRは、老人、女性など、“ちょっとIQの低い人々中心に進める”という一文があったのは有名な話だ(国会でも取り上げられた)。」立花隆のメディアソシオ・ポリティクス 第38回より引用
小泉政治の一番気持ち悪いところは何かと考えると、やはりその言葉だ。絶叫調のワンフレーズの繰り返しがどこから出て誰に向けられているのか。上記の一文を読んで得心がいった。
高学歴の連中を説得するのは時間もかかるし難しい。それよりは、、、ということなのだな。どちらも同じく一票は一票だから。
もちろんそうした社会的弱者のための改革を進めるというのであればそれは結構なこと。しかし小泉、竹中コンビが目指すのはそれとはまったく正反対のカイカクなんだナ。ワンフレーズを信じた人が一番裏切られる。そこが許せない。