そばつゆ作りに欠かせない「かえし」。作り方は味醂を火にかけアルコールを飛ばす。それに砂糖を加えてよく溶かす。醤油を入れて沸騰する前(70℃から80℃くらい)に火を止める。火を止める温度はもっと低くてもいいかもしれない。大事なのは沸騰させないこと。鍋は金属より土鍋がいい。味醂は岐阜の「福来純」。砂糖はさとうきび原料の「きっすい糖」。醤油は熊本の「ヤマア丸大豆しょうゆ」。これ以上の組み合わせはないかもしれない。
「かえし」はできるだけ長く寝かせた方がいいので、足りなくなったらこうして作り足している。常温で長期保存可能。そばつゆだけでなく料理全般に使えるが味がまったりしてくるので好みは分かれる。
畑の大根の葉の中にモンシロチョウが隠れていた。うす曇りの弱い日差しの中では飛ぶ元気もなさそうで羽も閉じたまま。写真を撮ろうと近づいたらレンズ越しに目が会った。昆虫類はどれも体のわりに目玉が大きい。
福島県二本松市の大七は以前からヒイキにしている酒。先日デパートの食品売り場で見つけて買ってきた。ほぼ一年ぶりに飲む大七はいつものごとく、、、と言いたいところだが、今回はちょっと違っている。雑味が多くなり泥臭くなった。扁平精米法というのは合理的な方法だとは思うが現実には理論どうりに削れてないのではなかろうか。誤解のないように書いておくが、決して泥臭い酒が悪いとは思っていない。ただ69%精白でこの味ならばもっと値段を下げるべき。大七に期待するのはそんな日常的な酒ではなく、もやもやした雲を突き抜けた先にある澄み渡った世界なのだな。今年の新酒に期待したい。
同じグループ展に出品している彫刻家渋谷武美さんの作品。箱のように作られているが箱にはなっていない(木の塊)。全体には白、そしてリボンにはオレンジでうっすらと彩色してある。贈るもの、贈られるもの。金銭を伴わない無償の行為。これから毎日この開かない箱を見るたびに自分がこれまでに授かったもの、受け継いできたものを確認し、さらにはこれから受け取るかもしれない「未知の贈りもの」にまで想いをめぐらすことができるのだ。つまりこれ、買っちゃったのだ。
このところ小田原へ行く機会が多い。先週は蕎麦の製粉。そして今週は小田原のデパートでのグループ展。ロビンソン百貨店というところで29日まで。お近くのかた、どうぞ。
写真は土曜日の4時過ぎ、国道一号線を小田原方面に向かう途中。箱根の山の上だけ厚い雲が切れ、赤みを帯びた光のシャワーが降り注いでいた。
福島から今年の新蕎麦を送ってもらった。これは今回初めて見る蕎麦の実だが、粒の一つ一つに光沢があり、収穫から乾燥までていねいに扱われてきたことがわかる。他の産地のものと比べると粒が小さいが、これは収量を増やすための土地改良などをせず、より自然な状態で栽培されたからではないかと想像している。おそらく野性的な蕎麦の香りが凝縮しているに違いない。日曜日の蕎麦の会が楽しみ。持つべきものはなんとやら。でも入手ルートは極秘にしておこっと。フフフ。
サッカーは好きなのにまだ一度もスタジアムへ行って生のゲームを見たことがないという。まあ、要するに怠惰なテレビサッカーファンなんだけど、中田のプレーは一度は見ておきたいと思っていた。地元のベルマーレに彼が入団してからずって注目していたのに、いつでも見に行けると思っているうちにどんどん遠ざかってしまった。距離だけではなく時が経つのも早い。国内で行われる公式戦で彼がプレーするのは今回が最後になるかもしれないという。今夜の中継を見ながら大事なものを見逃しているような気がしてならなかった。
若いころは魚は刺身で食べるのが一番だと思っていた。しかし今では生の魚よりひと手間かけたもののほうが好み。酢や昆布でしめたり干物にしたり、あるいは醤油や味噌で漬けたり。で、今回は味噌漬けなのだ。魚はサワラ。漬け込む味噌は米味噌だと辛すぎるので京都の甘い白味噌か九州の麦味噌がいい。酒でのばしてゆるいペースト状にした味噌に軽く塩を振った魚を漬け込む。二日目くらいが一番食べごろかな。簡単だけどただの塩焼きとは全然違うのだ。臭みも消え、白い身がトロトロ。
「花 〜すべての人の心に花を」
♪ 川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
そんな流れが つくころには
花として 花として 咲かせてあげたい ♪
♪ 泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ ♪
♪ 涙ながれて どこどこ行くの
愛もながれて どこどこ行くの
そんな流れを このうちに
花として 花として むかえてあげたい ♪
♪ 泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ ♪
♪ 花は花として わらいもできる
人は人として 涙もながす
それが自然の うたなのさ
心の中に 心の中に 花を咲かそうよ ♪
♪ 泣きなさい 笑いなさい
いついつまでも いついつまでも 花をつかもうよ ♪
すべてを包み込む大地の母を思わせるような歌詞。特に「咲かせてあげたい」「むかえてあげたい」というのは母性的な表現だ。それから「の」で終わる問いかけは東京言葉であって田舎(九州)でそんな言葉を男が使ったらたちまち笑いものだった。沖縄では違ったのかな?
この歌の作詞がたとえば矢野顕子だったら素直に納得できる。ついでに彼女の軽妙なピアノの弾き語りでこの歌を聞いてみたい。あるいは都はるみでも面白いか。とにかく間違っても男には歌って欲しくないな。さらにいえば歌はただ歌であってその上に世界平和だろうが環境だろうがそんなものを背負わせるべきでもないだろう。
夜の街路樹。ナンキンハゼ。
「花」のオリジナルバージョンは1980年に発表された「BLOOD LINE」の中に入っている。歌は喜納友子。クレジットにはライ・クーダーや久保田真琴の名前はあるがどういうわけか喜納昌吉は入っていない。これは聴いてみればわかることだが入り込む余地がなかったというのが真相だろう。それほど彼自身とは異質な曲なのだ。
掘りたての里芋は味付けなどしないでただ茹でた(蒸した)だけでも十分おいしい。茹でたてのアツアツを口に入れる幸せよ。
80年代の終わりころだったと思う。テレビに出演していた喜納昌吉を見てますます違和感が広がった。目が狂っている。エゴトリップ。今風に言えばジコチュー。歌の内容とその作者がこれほど結びつかない例が他にあるだろうか。
かるく「花」につっこみを入れるつもりでいたのに、考えていたらいろんなことが出てきて収拾がつかなくなってしまった。おまけに文章も論文調の硬いものになってきてますますしんどい。そこでここではこの歌を聞くたびに感じる違和感のようなものを記すだけにしておきたい。
もの作りにはその人なりのクセや志向というものがあって、自分とはまったく異質なものを突然変異のごとく作り出すのは不可能といっていい。ところがこの歌は喜納昌吉のそれまでの沖縄民謡ロックとはまったく異質。音階、リズム、ことば、何もかも違う。これはどういうことだろう。
「世界でたった一つの、、、」の元のメロディー(元メロというのか?)が実はボブ・ディランの「時代は変わる」(The Times They Are A-Changin')だということをwabisabilandの北中さんの指摘で初めて知った。ディランの公式サイトでちょっとだけ試聴できます。なるほど、どうりでなじみやすいメロディーだと思った。著作権についてはあまり神経質に考えるつもりはないけれど、儲かってるのならそれなりに礼をつくせ!、、、と部外者が怒ることでもないか。
花の歌がでてきたところで、また今日はちょうど沖縄のシークワーサーをもらったこともあり、明日は喜納昌吉の「花」にツッコミを入れてみたいと思うのだ。
女性を花にたとえるのは美しき伝統というべきもので、そのことにはなんら異論はない。源氏物語ならば夕顔とか藤壺。現代ではさくら、ゆり、すみれなど花の名前をもつ人は多い。しかしこれが男性の場合になるとかなり様相が違ってくる。
たとえば「同期の桜」
♪貴様と俺とは 同期の桜、、、見事散りましょ 国のため♪
あるいは唐獅子牡丹やら江戸時代の武士と椿など。なんだか妙に血なまぐさいことになってしまうのだ。今の時代にこういう歌が出てくるというのは裏にいる仕掛け人の存在を勘ぐってしまうのだが、考えすぎだろうか。
「地獄への道は、善意で敷き詰められている」(レーニンの言葉)-副島隆彦のサイトより-
戦前の日本の歴史を作ったのは軍部だけではないだろう。おそらく花を愛する心やさしき多くの人々が彼らを支えていたに違いないのだ。この歌は21世紀版「同期の桜」になってしまうかも。また明日に続く。
どこにでもよく生えているこの草はネコジャラシと総称されているが正式な名称はエノコログサというらしい。これはその中でも背が高く大きいのでアキノエノコログサになると思う。エノコロとは犬の子が訛ったもの。子犬の尻尾で猫をじゃらすわけだ。
エノコログサを検索したら2番目になんと除草剤のリストが出てきた。エノコログサは雑草として駆除すべきものらしい。その会社のトップページには「花と緑のある生活を通して心豊かな環境づくりに貢献する」とあった。なるほど。花と緑を増やせば心豊かな環境になるわけだ。でもねえ、花は確かに魅力あるけど、花をのみ見るべきものかは。「心豊かな環境」にエノコログサは入り込めないのだろうか。
余談ですがSMAPの歌う「花屋の歌」がキライです。正確には「世界にたった一つのなんとやら」というのかな。大きさも色も形もみごとに規格化されてバケツの中におとなしく入っている花にどうしてニンゲンが例えられなくてはならないのか。この歌の出だしからしてワタクシ怒ってます。明日に続く。
包丁を使うのが面倒だったのでつい手でさばいてしまった。体長18センチほどで刺身にしたほうが良さそうな肉厚の鯵。さばいたあとは手にべったりと脂が付いていた。冬が近づいてくるといよいよ魚がうまくなる。唐揚げの具合はもちろんいうことなし。パリパリのサクサクです。
今日から11月。カレンダーに合わせたように昨夜から冷える。明け方の気温は10度。外へ出てみると里芋の葉の上に細かい露がびっしりとついていた。