友人に誘われて初めての海釣り体験。相模川河口にある平塚漁港の岸壁から釣り糸を垂らした。風が強く空も快晴。当然釣果はゼロ。しかし細い糸一本で海とつながっている感覚は悪くない。
写真の船は釣り舟ではなくれっきとした漁船。どうやらシラス漁に出ていたようだ。帰りには浜の売店でシラス干しを買い、食堂では生シラスの入った刺身定食を食べてきた。満足。
派手な自己主張はなく常に控え目。水分を蓄え、音を吸収し、光を和らげてくれる。いつか苔だけの庭を作ってみたい。苔のほかには石も少々。静かな庭ができると思う。
道路の脇にこんな苔玉がいくつも転がっていた。大きさはこぶしくらい。おそらく残雪と共に運ばれてきたのではなかろうか。火曜日に日帰りで行ってきた八ヶ岳にて。今にして思えばひとつくらい持ち帰って育ててみたかったな。
幹に空洞があき、枯れ木のようになりながらもなお新芽をつけているざくろの木。幹のねじれ方は時計と反対まわり。これはDNAのねじれ方と同じ。
ヒメジョオンとハルジオン、図鑑を見てもよく似ているのでこれがどちらなのか区別がつかない。野原に雑草のようにありふれているのでつい見過ごしてしまうが、近づいて拡大してみると白い花びらの先は丸くなっているのがわかる。
咲き始めのわずかな色づきは時間と共に消えていき、散りぎわには真っ白く透けてくる。昨日から急に暖かくなった。今年の桜はもう終わり。来年はどんな春になるのだろう。
酒米には五百万石、美山錦、雄町、亀の尾などなどあるがやはり横綱格は山田錦。この酒はいただきものだが山田錦100%の純米酒。味のふくらみ、柔らかさ共に満点のフルボディタイプ。稲作の国に生まれたシアワセ。醸造は灘の浜福鶴銘醸。ごちそうさまです。
「ブラザー軒」
♪ 東一番丁、ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん
氷を噛む音。
♪ 死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。
♪ 色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら。
♪ 細い脛だして
細い脛だして
椅子にずり上がる
椅子にずり上がる
♪ 外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。
♪ 妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。
♪ ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。
♪ 簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん
氷を噛む音。
♪ 死者ふたり、つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。
♪ ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。
♪ 東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。
詩/菅原克巳
「高田渡読本」で面白いのは巻末に載せられている譜面。解説には弦の種類、チューニングの方法、カポタストの位置などもあり親切。これから歌を始めようという人たちには多くのヒントを与えてくれることだろう。
「ブラザー軒」は宮崎駿のアニメ映画になりそうな一情景。死者にたいする愛情にあふれている。
検索していたらYouTubeに「ブラザー軒」が登録されていた。これは驚いた。話しには聞いていたけどすごいサイトがあるもんだ。インターネットが進化していることを実感した。一見、一聴の価値あり。こちらです。http://www.youtube.com/watch?v=MVY_UdyWhao
「漣」
♪ 漣とぼくはいる
二人でいる
野原に座っている
空を見上げている
見えるものはみんな人のものだよ
うんと漣はいう
親のぼくも頭が弱いが
どうやら息子の漣も似ているらしい
見えないものは ぼくらのものだよ
うん
腹へったか
腹へった
詩/高田渡
小柄な体にヒゲだらけの顔。風貌は老人のようだが歌いだすと声は驚くほど野太い。ギターは控え目ながら一音一音がくっきりと響き、すみずみまで神経が行き届いている。たとえれば背骨が真っ直ぐにとおった音楽。そして歌の合い間の語りは志ん生の落語そっくり(かなり聞いていたのではなかろうか)。
彼の歌は一曲が短い。ちょうど俳句のように現実を歌いながらもいつのまにかするりと現実をすり抜けていく。目には見えない大切なものを目に見えるもの(歌)にして伝えたかったんだな。
「高田渡読本」では前掲の詩を含めて6篇の詩に僕の写真を添えていただいた。
「夕暮れ」
♪ 夕暮れの町で
ボクは見る
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを
♪ 夕暮れのビヤホールで
ひとり 一杯の
ジョッキーを まえに
斜めに 座る
♪ その目が この世の誰とも
交わらない ところを
えらぶ そうやって たかだか
三十分か一時間
詞/黒田三郎・高田渡
亡き人のことを冷静に偲ぶことができるようになるには2年という月日は短すぎるのかもしれない。この本は彼の友人たちによる追悼文集のおもむきがあるが、いまだに生々しい証言があふれていて高田渡という音楽家をリアルタイムで体験しているような充実感がある。ディスクガイドも秀逸。
「高田渡読本」音楽出版社刊。編集は浜野智さん。
急ぎの仕事が入ったため一週間ほど嵐のような日々が続いていた。一段落ついて明け方寝入ったらそのまま夜まで眠ってしまった。朝のような夜。頭も体もぼんやり。外は冷たい雨。
ポストを覗いたら音楽出版社から「高田渡読本」が送られてきていた。今日は高田渡さんの命日。この本には光栄なことに写真で参加させてもらったのだ。詳しくはまた明日。
桜は花びらが一枚づつ散っていくものだと思っていたのにこの山桜はまるごと一輪落ちている。これは新発見か?ただよく考えてみると誰かが散らした可能性もあり。鳥か人か。
別名「花ダイコン」。最近あちこちでよく見かけるようになった。どちらかというと日陰が似合う花。
今日も雨。土が乾かないので昼間からストーブを焚いている。
麦踏みをしたのはいつのことだったろう。寒気の朝、霜柱を踏んでザクッザクッザクッ。土も草も霜で真っ白。朝日を浴びて吐く息までキラキラ輝いていた。思えば約半世紀前のこと。
このごろ自転車で走っているとところどころに忘れられたように生えている麦を目にする。人の手で植えられたものだとは思うが、手入れがあまり行き届いてないところをみると換金作物ではなく自家用なのだろう。いまどきは麦踏みなどは不要のはず。
近くの丘を自転車で登っているときに見つけた地層。砂礫ばかりが何層にも重なっているところからすると遠い昔、このあたりは浅い海だったのではなかろうか。ところどころに黒い層が入っているのは火山灰か。
桜を撮るのは難しい。まず花がかたまって咲いているので焦点が絞りにくい。それに光の具合やわずかな露出の違いで花の色が濁ってしまう。というわけで夜桜は雰囲気だけ。いつか夜明け前の薄靄の中に咲く桜を撮ってみたいのだが、、、今年も早起きはできなかった。
上野の国立博物館でダ・ヴィンチ展が開かれていることもあり、下準備のつもりで読んでみた。期待が大きかったせいもあるが読後感はかなりもの足りない。まず冒険活劇風のストーリー展開が大味。始めからハリウッドで映画化することを前提に書かれたようで、まるで第二のインディ・ジョーンズだ。人物設定もステレオタイプ。
謎解きの中心はマグダラのマリアの存在だけれども、たとえば仏陀(シッダールタ)には出家する前に妻も子供もいたわけで何も隠す必要などはないと思うのだ。信仰心にとってはそんなことはどうでも良いことではなかろうか、と東洋の無宗教人は思う。
普段よく見かける木いちごとは違って花は下向き、枝ぶりも異なっている。検索したらどうやらモミジイチゴらしい。どんな実がなるのか見てみたい。
昨日の日曜日は大磯の山で野焼きのお手伝い。雑木林に囲まれた山間の畑。春の青空。子供たちの粘土作品を焼きながら贅沢な時間を過ごすことができた。火のそばではにぎやかな宴会も。ホイルで包んで焼いたタケノコ。サツマイモ。山菜の天ぷら。セリ。エシャレット。中華おこわ。スモークチーズ。マトンカレー。「〆張鶴」。飲み過ぎに食べ過ぎ。どうもごちそうさまでした。