小田原港、朝獲りたてのイワシ(ヒコイワシ)。このまま手びらきで刺身にしても良し。頭とワタを取り、酒、醤油、生姜、唐辛子と共に辛めに煮付けても良し。港が近いというのはいい。
焼き物の絵付けや文様として描かれることの多いアザミ。花の線や先の尖った葉の形が絵付けの筆に馴染みやすいのだろう。最初に描いたのは富本憲吉ではなかったかな。
気温35度以上を記録した日を猛暑日と呼ぶことになったらしい。毎年40度を越す日も何日かあるのでそのうちこちらにも何か名前がつけられることだろう。使われる文字はもはや暑ではなく熱。炎熱日とか灼熱日とか熱波警報とか。従来型の暑さ対策ではもう対処できない。「熱さ」対策が必要になるだろうな。
オリンパスのE300を使い始めて一年になる。デジカメでこれほど長く使ったのは他にない。レンズは35ミリのマクロレンズ一本のみ。このブログの写真は昨年の4月から(正確には4月12日から)ほとんどこれだけで撮ってきた。ズームレンズは便利だと思うが単焦点レンズが好きなのだ。従来のフィルムレンズに換算するとほぼ70ミリ。ブログの写真サイズにはこれがちょうどいい。
空は明るくても夕暮れ時の林道の中は意外と暗い。白いものを見つけて自転車を止め、カメラを取り出す。普通にオートで撮るとブレてしまうので感度を400に上げ、さらに露出を−1補正。絞り開放で1/20秒。ただ、肝心の花の名前がわからない。
午後3時過ぎに本焼き終了。ヒーター線の接続部を修理したので焼成時間が1割以上短縮された。コスト面でも省エネルギー、温暖化対策の面でもこまめなメンテナンスは欠かせない。
時流に流されない真面目な造りとストレートな味わい。信州の酒には全般的に好感を持っている。ただ華美を良しとしない土地柄のせいか味の奥行きというところでは少々もの足りなさも感じていた。
これは先日、八ヶ岳からの帰りに買ってきた酒。単純に言葉では表現できない深みがある。人間の論理では計り知れない未知の領域。森の奥の静けさ。信州の酒の新境地か。ラベルには千曲川最上流の酒とある。醸造は佐久穂町の黒澤酒造。
土曜日の東京。八重洲口を出て門坂流さんの個展会場へ。銅版に刻まれたビュランの細い線は一本一本が気持ちよくうねっていてエネルギーの流れに淀みがない。見ていたらなんだかモノクロームの写真を撮りたくなってきた。
会場を出たところでパラパラと雨。雲のうねりがこのまま門坂さんの版画になってしまいそうに思えた。
夜は市ヶ谷で高校時代の恩師らと再会。さまざまな人生の片鱗に触れる。皆さんまだまだこれから。ワタシもしっかりやらなくちゃ。
今夜から本焼き。
時計、指輪、眼鏡、カメラ、楽器、車、服、絵画そして焼物などなど。日常をいろどるさまざまなモノたち。それぞれのモノに対する人の思いや愛着というものは当のモノたち自身にも何らかの影響をおよぼしているのではなかろうか。人と関わることでモノも磨かれ成長していくのではないか。たとえば代々受け継がれてきた名物茶碗を前にしたとき、感じるのは美しさというよりは智恵深い古老に会ったような感覚。
モノはモノであってモノではない。モノは遍歴を繰り返すたびに磨かれていく。使わないモノ、使わなくなったモノたちは思い切って人の手にゆだねたほうが良い。モノにとって最大の不幸は押入れに仕舞いこまれることなのだから。
かわいい子供には旅をさせよう。かわいいモノたちにも旅をさせよう。
「シークレット・ライフ」 ライアル・ワトソン著 内田美恵訳 筑摩書房
花水川下流から大山(おおやま)を望む。標高1252m。大山は別名「雨降(あふ)り山」とも呼ばれ、中腹には大山阿夫利神社がある。江戸期には観光スポットとなり、大山詣りは江戸庶民にとって手軽な団体ツアーとなった由。
あやめ、菖蒲、杜若、いまだに区別がつかないが検索の結果、この花はキショウブ(黄菖蒲)のようだ。外来種ながらすでに各地で自生しているとのこと。夏には蓮の葉と花で埋めつくされる弁天池。いまはまだ水面に若葉が浮かぶのみ。
苔の世界も多種多様。入り込んでいけば迷路のような面白さがある。検索していたら苔玉、苔庭だけでなく、苔による屋根緑化というのもあった。温暖化対策としてかなり有効かも。写真は白樺湖近くのカラマツ林の中で見たスギゴケ(コスギゴケかも)。
昔の棚田も農地改良とかで機械が入りやすいように直線的な区切りに変えられている。情緒はイマイチ。しかしそれでも空を映す水面が幾重にも連なる景色には見とれてしまう。遠くに見えるのは雲に隠れた八ヶ岳。
街路樹としてすっかり定番化してきたハナミズキ。開花すれば木全体が白く輝き、通りにはさわやかな五月の風が吹き渡る。ピンクの花もあるが街路樹としては白だけの方が良いと思う。写真は信州、辰野町にて。
唐辛子とニンニクをオリーブオイルで炒め、そこへ湯むきしたトマトをザクザク切って入れる。パラパラと塩を振り、あとはスパゲティの茹で上がりを待つだけ。麺はDE CECCOの10番が好みなのだ。
新鮮な生トマトが出まわるこれからの季節は体質まで地中海型になってしまいそう。
最近はあまり見かけなくなったレンゲ畑。子供のころはこの中で転げまわって遊んだ記憶がある。子供心にもこの世の楽園と思われた。
検索して調べてみたら「レンゲは豆科で、大気中の窒素を取り込んで養分にできる植物」とのこと。田畑の肥料として植えられる理由がようやくわかった。
大磯の畑で生食用のほうれん草をもらってきた。ざっくり水洗いした上に唐辛子、にんにく、ジャコをこんがり炒め、酢と醤油を加えたドレッシング。和とも洋ともいえないが我的満足此味?明日からはポパイだ!
中国陶器の精華ともいうべき端正な青磁、天目。日本桃山期のエネルギーを髣髴とさせる志野、織部、灰釉。岡部嶺男の作品をこれだけ集めた展覧会はおそらくこれが初めてだと思う。確かな技術の上に伝統を越えていく造形力。どれもレベルが高い。
ただ以前から気になっていたのが写真のバックにも写っている縄文をたたきつけたシリーズ。自分の体重と同じくらいの粘土のかたまりに向けて縄目をたたきつけている。解説によれば野球のバットくらいの木を使っていたらしい。土を叩くという行為は裏返せば自分自身を打ちすえる行為でもある。それほどの葛藤がいったいどこからくるのだろうか。
そうした疑問に対するヒントのようなものをこの展覧会では知ることができた。それは彼の戦争体験。図録の年表から抜粋してみると
昭和15年 太平洋戦争始まる。東京物理学校(現・東京理科大)を中退。窯業学校時代から描いていた油絵をリヤカー3台分焼却して入営。1944年(昭和19年)まで中国山西省各地を転戦。
昭和19年 フィリピンへ転戦。マニラに上陸。弟・四郎が学徒動員中に名古屋の空襲で爆死。
昭和20年 ルソン島で米軍に敗北、仲間9人とジャングルに逃げ込む。決死行で5人だけが生きのびる。8月、敗戦。米軍の捕虜となり、マニラ郊外の捕虜収容所で1年4ヶ月を過ごす。弟・裕、中国にて戦死。
昭和22年 復員
戦争で二人の弟を亡くし、そして自らはおそらく何人もの敵兵を殺したであろう6年余の歳月。縄文シリーズを読み解くカギはここにあるように思う。
岡部嶺男展 東京国立近代美術館工芸館(竹橋)にて5月20日(日)まで。
いま憲法改変の動きがあわただしい。しかし議論の前に我々の世代は憲法9条に守られてきたということは確認しておきたい、そしてそれは幸いであったということも。これを変えると言うならばそれ相応の覚悟が必要だ。(5/12 追記)
縄文シリーズについて「気になる」と書いたが、正確にいえば青磁や天目の完成度の高さに対して縄文シリーズは表現が生(なま)。このギャップが気になる。
一人の作家が抱え込んだこれだけの振幅のずれ。この大きな揺らぎのなかに岡部嶺男という人間が見えてくる。(5/12 追記)