赤瀬川原平さんが亡くなられたとのこと。ちょうど図書館から表題の本を借りてきてたところなのでなんとも、、、。
芸術作品とガラクタとの間の危うい境界線上を軽やかにステップするようなエッセイはけっこう好きだったな。ライカに目覚めてからのカメラ、写真談義も楽しかった。ご冥福を。
Lumix G1 + Kodak Ektar 44mm/f3.5 + Silkypix
月に一度、秦野市内の公民館へ陶芸教室のため出かけているけど、今日はその帰りに隣の山北町までミニミニトリップ。洒水の滝は何度も来ているのにその脇の最勝寺の境内には登ったことがなかった。凍りつくほどの冷気の中、本堂の前にはそれぞれにかざぐるまを持った千体地蔵尊。冷気は霊気。まわれまわれかざぐるま。
民主党政権最初の看板がこの2枚。「国家戦略室」と「行政刷新会議事務局」。やはり勢いがあって骨格も確か。さらに臨戦体制のような緊迫感も漂う。というわけで自民党と民主党の看板対決は完全に民主党の勝ち。看板は組織の内部を映す鏡。自民党の将来は暗いな。総裁選が終わったら分裂か。
写真はwebから拝借。
自民党政権最後の看板。これはもうすぐにでも何とかして欲しい。ワタクシも字は下手だけど同じくらいヘタ。野田聖子もこれで株を落としたな。再起は無理かも。福島瑞穂はこの看板をそのまま引き継ぐのだろうか。(公人のため敬称は略しています)
写真はwebから拝借。
こちらは久間章生の筆のようだ。この人、先の衆議院選挙で民主党の新人に敗れて落選した。書体をみても覇気がない。こんな看板の下で「国を守る」という意欲がわいてくるだろうか。
写真はwebから拝借。
書道(カリグラフィー)というのはあらゆる造形芸術の基礎だと思っているのだがときどきニュースで目にする中央省庁の看板文字には気になるものが多い。まず文化庁。個人の書としては面白いが組織の看板としては不適だろう。看板は組織の顔であり顔はその内実を表す。看板はその内部の人間の精神にも作用し士気や意欲にも関わってくるのだ。
省庁の看板文字は発足時の大臣、長官が書くことになっているらしい。とすると文化庁の看板は初代長官の今日出海か。何か口実を作って早く書き直したほうが良いのではなかろうか。さもないとまた高松塚壁画のような大失敗をやらかすかも。
隣りの文部科学省は町村信孝なのかな?こちらは個性も面白みもない。外見だけで中味空っぽ。
写真はwebから拝借。
演技と呼べそうなものはほとんどなく、ひたすらことば、ことば、ことば。ことばの洪水。しかもフランス語。字幕で対訳が出てくるが文字を追っていたら舞台が見えないし舞台を見ていたらすじがつかめないというジレンマ。観客にも相当な集中力が要求される芝居だった。
ことばで何かを伝えたいという情熱。多少のとまどいはあってもそれはしっかりと受け止めねばならないだろう。
死んだ人はみんな言葉になるのだ、と言ったのは寺山修司だったか。
ひとつのことばが生死を分けることもある。しかしアウシュビッツでもルワンダでも本当に恐ろしいのはことばが通用しなくなることなんだな。人はことばで生きている。
第二部のコンサートは完全なオマケ。まるで出演者、スタッフの打ち上げを見ているようだった。ただその中でも土取利行さんのパーカッションはひらめきに満ちていてシャープ。これからもまだまだ活躍してくれることだろう。
運営(主催は大野一雄舞踏研究所)に関しては?マークが10個くらいつくが松本のHさん夫妻にも会えたし土取さんとも話ができたので個人的には満足。5月最後の日曜日はこうして刺激的に過ぎていったのだ。
上演されたのはペーター・ヴァイス原作の「The investigation」(追求)。アウシュビッツで職員として働いていた被告と元収容者の証人が次々に登場する裁判劇。しかもそれを演じるのがルワンダ国内での虐殺を身をもって体験してきた役者たち(座長のドルシー・ルガンバという人は家族を全員殺されてしまったとのこと)。さらに会場は横浜の港に接した改装工事中の古い倉庫。むき出しのコンクリートに瓦礫の山。ここで観客を拉致監禁状態?にして芝居に集中させようという仕掛け。
2週続けて横浜へ。チケットは完売とのことだったがかまわず会場へ行ったらなんとか入れた。ところが驚いたのはプログラムが変更になっていたこと。第一部はルワンダからの劇団による演劇、一時間半。あれッ。内容はアウシュビッツ裁判をもとにした法廷劇だって。あらら。土取利行氏の登場は第二部とのことだがこれはオマケ的な扱い。あーあ、コンサートのつもりで来たのにこれじゃあ。
アネハネハ楽園国にひっそりとたたずむ「待ち人ホテル」。
階段が長いなあ。ドアも窓も小さいなあ。中は暗くて静かだなあ。待ちつづけて何十年経ったかなあ。待ち人は誰だったかなあ。
作者は姉歯公也さん。置き場所はどこにするかなあ。
同じグループ展に出品している彫刻家渋谷武美さんの作品。箱のように作られているが箱にはなっていない(木の塊)。全体には白、そしてリボンにはオレンジでうっすらと彩色してある。贈るもの、贈られるもの。金銭を伴わない無償の行為。これから毎日この開かない箱を見るたびに自分がこれまでに授かったもの、受け継いできたものを確認し、さらにはこれから受け取るかもしれない「未知の贈りもの」にまで想いをめぐらすことができるのだ。つまりこれ、買っちゃったのだ。
大磯のギャラリー「布う」で出会ったチベットのタンカ(仏画)。無数の手が光背のように伸び、そのすべての掌に眼が描かれている。しかも十一面。目にした瞬間にたちまち引き込まれてしまった。どうしよう。
黒一色の版画作品のように見えるが実際はキャンバスの上にジェッソ?と油彩。大きさは縦40センチほど。作者は山崎克己さん。今年の9月、銀座のスパン・アートギャラリーに立ち寄った際、気に入って買ってしまった。ちょうどKajimaでの個展の搬出日でささやかながら小銭を持っていたという事もある。しかし友部正人や高田渡の歌を聞いているような懐かしさもあって離れられなかったのだナ。
昨日(正確には一昨日の月曜日)も銀座へ作品を届けてとんぼ返り。今回は一丁目の森田画廊での酒器展に飛び入り参加。詳しくはExhibitionをご覧下さい。
年越し、新年の酒器をお探しの方、銀座へどうぞ。
1980年、ということは今からおよそ25年前の作品。神戸須磨公園現代彫刻展に応募したときの模型。今では写真だけしか残っていない。
直径5メートルくらいの円をピアノ線で作り水の上に設置。風によって振動したピアノ線が音叉のように音を発し、さらに隣の線の音と共鳴してゆったりとした「うなり」も聴けるのではないかというプラン。残念ながら模型審査で落ちてしまった。その後、宮脇愛子サンの「うつろい」が出てきたときには驚いた。ひねりが加えられ、見せ方もうまかったナ。