「ショック・ドクトリン」 ナオミ・クライン
「縄文人に学ぶ」 上田 篤
台風が去って急に涼しくなった、というか寒くなった。長袖を引張り出し毛布も増やして秋支度。窓を閉めても虫の声が四方から聞こえてくる。

Lumix G1 + Canon FD50mm/f1.4 + Silkypix
寺田寅彦「子猫」
犬や猫を飼ったことのある人ならわかるだろうけど、小さな命のたくましさとはかなさ。それを見守る人間の孤独とかなしみ。
寺田寅彦の随筆は好きで昔からよく読んでいたけれども、しだいに文庫本を読むのがつらくなってきて(文字が小さいため)久しく忘れていた。それが青空文庫にまるごと保管されていて、しかもそれを大きな文字にして読めるという。電子書籍はありがたい。
ソニーの「Reader」向けに変換したものをまたアップしました。上のリンクをクリックしてご覧ください。パソコンで読むには文字が大きすぎるかも。適当に縮小したら読みやすくなります。

ソニーのReaderを使い始めて2週間あまりが過ぎた。その間、ハード、ソフト、ファイル形式、流通などについて気づくこと多々あり。そこで電子書籍については今後とも定期的に取り上げていきたい。
今日は青空文庫をReaderで読みやすいように縦書きに変換する方法。
昨夜からいろいろとネット上を検索し有難いソフトを発見した。青空文庫のテキストを一瞬でReader用のPDFに変換してくれる「ChainLP」。これは感動してしまった。こちら。作成者の方に感謝。
ちょっと専門的でわかりにくいところは他のサイトなどを参照しながらなんとか自力でインストール。フォントを楷書体、文字サイズを20に設定して変換したのが上の写真。ここまでできればもう完璧ではなかろうか。参考までに同ファイルをアップしてみました。こちら。ノートパソコンでも読みやすいかも。
今朝は300冊ほどの本をほんの数十分で変換し、Readerに保存。あらためて青空文庫の関係者の皆さんにも感謝!

Lumix G1 + Canon FD50mm/f1.4 + Silkypix
以前から電子ブックには興味があってソフトとハード両面の動きを見守ってきた。実はもう10年以上前に文庫本サイズの電子ブックのアイデアがあって、いろんな人に話しかけたけど当時は誰も相手にしてくれなかった。
でもようやく電子ブック元年などといわれ、ソフト、ハードともに充実してきたかに思えたので実際にその手触りを試してみようとソニーの「Reader」を買ってみた。買ったばかりなので早計には判断できないが出来は可もなく不可もなく、まあ、ぎりぎり及第点といったところ。不満な点は挙げればきりがないが、それより新しいアイデアが早速二つ思い浮かんだ。誰か聞いてくれるかなあ。

豊田勇造ソングブック「歌いながら夜を往け」(ビレッジプレス刊)
これまでに発表された豊田勇造の全歌詞を集めたソングブック。歌詞だけではなくコードが付けられているのがうれしい。こんな本が昔はたくさん出ていてそれを見ながらギターや歌の練習したものだ。彼の歌は難しいけれどもこの本を見て曲をカバーする若者がいっぱい増えるといいなあ。中にはワタクシが撮影した写真もいくつか載せてもらってます。
旧日本軍の敗因を組織論的に分析した名著。人の生死に関わる重要な決定ですら論理より「空気」が優先してしまう日本型組織の弱点。さらには失敗の経験が教訓として蓄積されないため、同じ失敗がその後も幾度となく繰り返される愚かさ。21世紀の現在でも状況は変わっていないのではなかろうか。「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」
アマゾンで注文していた「早稲田OB漫」が届いた。早稲田漫画研究会創立55年誌。こういう企画本はえてして権威主義的になりがちで部外者には楽しめないものが多いがこの本にはそんな心配は要らない。巻頭の東海林さだおから総勢80余名の漫画家によるギャグと風刺が詰まっている。編集発行人はアサミカヨコ女史。関係者ならば(関係者でなくても)これは買わねばならんでしょう。
1941年12月8日、日米開戦。今読んでいるのはヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」。
第一次大戦では同盟国だった日本とアメリカがなぜ戦争することになってしまったのか。日本はなぜソビエトではなくアメリカと戦ったのか。真珠湾に至る経緯はどんなものだったのか。アメリカの戦争の目的はなんだったのか。本土空襲は何のためだったのか。そして広島、長崎の原爆はなぜ投下されたのか。
著者は戦後GHQの要員として日本に滞在し占領政策に直接関わったアジア研究者。GHQの内側からこの戦争を冷静に分析している。出版されたのは1948年。戦勝気分の残るアメリカでよくこんな本が出版できたものだ。
昨年から文様について考えている。文様とは単なる装飾の技法だろうか。
たとえば唐草文様を見るときに感じる懐かしさのようなものはいったい何なんだろう。この感覚はどこから来るのだろうか。
枝の先からまた枝を伸ばし、葉を広げ花を咲かせる。終わることなく繰り返される成長のリズム。まるで生命の連鎖。DNAの二十螺旋。遺伝子の意思。
唐草文様が古今東西さまざまに変化し受け継がれてきた背景には永遠に繰り返される生命エネルギーへの憧れがあるのではないか。
「我々の美の感覚とは生命のプロセスと密接に関連し、我々の美の体系と生命の体系とは共振しあっているのかもしれない。」伊藤俊治著「唐草抄−装飾文様生命誌」より
9.11事件のあとイスラムに関するニュースは増えたがイスラム教がどういう宗教なのかは一向に分からないままでいた。井筒俊彦著「マホメット」は小著ながらイスラムの誕生と当時の時代背景を活き活きと描き出している。教えられること多々あり、目から鱗。初版はなんと昭和27年。
Intelligenceは知性とか知力という訳の他に国家機密あるいは諜報という意味もあるんだな。手嶋龍一の「ウルトラ・ダラー」が面白かったのでついでに佐藤優との対談集も読んでみた。その中ではインテリジェンスとは「国家の命運を担う政治指導者が舵を定めるための羅針盤」と定義されている。
「ウルトラ・ダラー」では北朝鮮による拉致、偽ドル札、核開発、そしてウクライナのミサイルなどが互いに関連する一つのストーリーとして描かれている。著者によれば「嘘のような真実」と「真実のような嘘」があり、しかもそれぞれに二重底、三重底の仕掛けを施すことによって情報源を秘匿しているとのこと。フィクションとノンフィクションの垣根を縦横に飛び回る。こんな小説が日本でも生まれるようになったんだな。いっぽう佐藤優は本物のインテリジェンス・オフィサーだっただけにその発言は重くリアリティーがある。彼の著作も読んでみたくなった。

1980年ごろだったと思う、草月ホールにニュー・ジャズ・シンジケートのコンサートを聞きに行ったことがある。たしか車椅子に乗った富樫雅彦がゲストで出演していたはず。そのときにピアノを弾いていたのが原�錙覆呂蕁,蠅腓Α砲箸い�人でコンサートのパンフレットに文章も書いていた。それが名文だったのでもしかしたら詩人でもあるのかなと思ったものだ。
それから10年ほど経った頃、本屋のミステリーコーナーで同じ名前を見つけ、オヤッと思って手にとってみたらやはりそうだった。いつのまにかピアニストをやめてミステリー作家に転身していたのだ。
主人公沢崎の探偵事務所は西新宿。ロサンジェルスのフィリップ・マーロウが現代の東京によみがえったようで面白い。雨の日の読書に最適。
松永伍一さんの訃報。この本はパソコンのそばの本棚にあった一冊。ミロ、ガウディ、モロー、マチス、ダ・ヴィンチ等々、全部で33人の作家の習作、デッサンが簡潔な文章で紹介されている。掲載されている作品はどれもみな完成度が高く魅力的。しかも本作以上に作家の内側に近づける。詩人らしい切り口の本だ。
昼間はしとしと降っていた雨が夜になってどしゃ降り。警報まで出ていたようで近くを走る新幹線も止まったらしい。屋根を打つ雨音が激しく音楽も聴けない。やれやれ。
こんな日にはスマイリー・シリーズ。初期の「寒い国から帰ってきたスパイ」以来ずっと気になって事あるごとに集めていたのだな。冷戦時代のイギリス情報部が舞台だが内部の仕事は現在でもさほど変わってないのではなかろうか。緊張感のある知的な推理ゲーム。こういうシリーズがあれば無人島に一人取り残されてもこわくない。(ただし衣食住が満たされていればネ)

時計、指輪、眼鏡、カメラ、楽器、車、服、絵画そして焼物などなど。日常をいろどるさまざまなモノたち。それぞれのモノに対する人の思いや愛着というものは当のモノたち自身にも何らかの影響をおよぼしているのではなかろうか。人と関わることでモノも磨かれ成長していくのではないか。たとえば代々受け継がれてきた名物茶碗を前にしたとき、感じるのは美しさというよりは智恵深い古老に会ったような感覚。
モノはモノであってモノではない。モノは遍歴を繰り返すたびに磨かれていく。使わないモノ、使わなくなったモノたちは思い切って人の手にゆだねたほうが良い。モノにとって最大の不幸は押入れに仕舞いこまれることなのだから。
かわいい子供には旅をさせよう。かわいいモノたちにも旅をさせよう。
「シークレット・ライフ」 ライアル・ワトソン著 内田美恵訳 筑摩書房
「ブラザー軒」
♪ 東一番丁、ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん
氷を噛む音。
♪ 死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。
♪ 色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら。
♪ 細い脛だして
細い脛だして
椅子にずり上がる
椅子にずり上がる
♪ 外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。
♪ 妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。
♪ ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。
♪ 簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん
氷を噛む音。
♪ 死者ふたり、つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。
♪ ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。
♪ 東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。
詩/菅原克巳
「高田渡読本」で面白いのは巻末に載せられている譜面。解説には弦の種類、チューニングの方法、カポタストの位置などもあり親切。これから歌を始めようという人たちには多くのヒントを与えてくれることだろう。
「ブラザー軒」は宮崎駿のアニメ映画になりそうな一情景。死者にたいする愛情にあふれている。
検索していたらYouTubeに「ブラザー軒」が登録されていた。これは驚いた。話しには聞いていたけどすごいサイトがあるもんだ。インターネットが進化していることを実感した。一見、一聴の価値あり。こちらです。http://www.youtube.com/watch?v=MVY_UdyWhao
「漣」
♪ 漣とぼくはいる
二人でいる
野原に座っている
空を見上げている
見えるものはみんな人のものだよ
うんと漣はいう
親のぼくも頭が弱いが
どうやら息子の漣も似ているらしい
見えないものは ぼくらのものだよ
うん
腹へったか
腹へった
詩/高田渡
小柄な体にヒゲだらけの顔。風貌は老人のようだが歌いだすと声は驚くほど野太い。ギターは控え目ながら一音一音がくっきりと響き、すみずみまで神経が行き届いている。たとえれば背骨が真っ直ぐにとおった音楽。そして歌の合い間の語りは志ん生の落語そっくり(かなり聞いていたのではなかろうか)。
彼の歌は一曲が短い。ちょうど俳句のように現実を歌いながらもいつのまにかするりと現実をすり抜けていく。目には見えない大切なものを目に見えるもの(歌)にして伝えたかったんだな。
「高田渡読本」では前掲の詩を含めて6篇の詩に僕の写真を添えていただいた。
「夕暮れ」
♪ 夕暮れの町で
ボクは見る
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを
♪ 夕暮れのビヤホールで
ひとり 一杯の
ジョッキーを まえに
斜めに 座る
♪ その目が この世の誰とも
交わらない ところを
えらぶ そうやって たかだか
三十分か一時間
詞/黒田三郎・高田渡
亡き人のことを冷静に偲ぶことができるようになるには2年という月日は短すぎるのかもしれない。この本は彼の友人たちによる追悼文集のおもむきがあるが、いまだに生々しい証言があふれていて高田渡という音楽家をリアルタイムで体験しているような充実感がある。ディスクガイドも秀逸。
「高田渡読本」音楽出版社刊。編集は浜野智さん。
上野の国立博物館でダ・ヴィンチ展が開かれていることもあり、下準備のつもりで読んでみた。期待が大きかったせいもあるが読後感はかなりもの足りない。まず冒険活劇風のストーリー展開が大味。始めからハリウッドで映画化することを前提に書かれたようで、まるで第二のインディ・ジョーンズだ。人物設定もステレオタイプ。
謎解きの中心はマグダラのマリアの存在だけれども、たとえば仏陀(シッダールタ)には出家する前に妻も子供もいたわけで何も隠す必要などはないと思うのだ。信仰心にとってはそんなことはどうでも良いことではなかろうか、と東洋の無宗教人は思う。
不二家、関西テレビ、パロマ、三菱自動車、シンドラー社、雪印、耐震偽装設計などなど、数え上げればきりがない。職業人の自分の仕事に対する倫理観というのはいったいどこからくるのだろうか。姉歯建築士は何のために働いていたのだろうか。家族のため、会社のため、自分のため、社会のため?
そんなことを考えていた時に出会ったのがこの本。質素、倹約、清貧を旨として営利を嫌ったピューリタンの経済倫理がいつのまにか利潤を追求する近代資本主義の形成に大きく関わってくるという皮肉な逆説。自分の職業を「神に与えられた使命=天職」と考えうる人々の存在なくしては近代産業は成り立たなかったのではないか。なるほど。では日本型の資本主義社会においては神様の代わりになるものは何だったのだろうか。
まだ全部読み終えてないがいろんなことを考えてしまってなかなか進まない。まあ春ごろまでには終わるかな。タイトルは難しいが訳文が見事なので読みやすい。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳

コミケ=コミケット=コミック・マーケットということらしい。毎年夏と冬の2回、それぞれ3日間にわたって開かれるミニコミ同人誌の販売会。これだけ聞くとマイナーなイベントに思えるが中身はマイナーでも規模は巨大。会場の東京ビッグサイトでは参加者は50万人に上るという。まるで万博並み。知らなかったな、こんなイベントがあるなんて。
このことを知ったのは米澤嘉博の訃報を聞いてから。彼がコミケの代表だったということで何のことかと調べてみたのだ。彼とは高校のたしか2年のときに同じクラスだった。当時からマンガには詳しく膨大なコレクションを持っていたし、マンガ雑誌そのものが粗末に扱われることを嘆いてもいた。
あの華奢な体のどこからコミケという巨大イベントを生み出すパワーがでてきたのか。マイナーなものをその純粋さを保ちつつメジャーにつなげていく。言うは易く、しかし実現するのはきわめて難しい。運営していく上での心労は尋常ではなかったはず。それを支えた10代のころから変わらぬマンガに対する情熱と使命感。みごとなストレート・ライフだ。合掌
コミケについてはウィキペディア(Wikipedia)が詳しいです。http://ja.wikipedia.org/wiki/コミックマーケット
羊毛と紡ぎの専門誌SPINNUTS(スピナッツ)。最新号の特集は伊藤久仁子さんの敷物。トワイニングという技法が写真と図解で解説してあるので門外漢にも分かりやすい。しかも写真の横には糸の現物がホッチキスで留められていてこれ以上ないリアリティーがある。発行は京都のスピンハウスポンタという羊毛の輸入、卸屋さん。ホームページがありました、こちら。

北朝鮮のミサイル発射を受けてはしゃぎまくった面々はその勢いで8月15日に靖国参拝、それから自民党総裁選を経て9条撤廃へと一気に突き進めると踏んでいたかもしれない。しかしここで出てきた昭和天皇の発言メモ。彼らにとっては思いもかけないカウンターパンチだったはず。
ただA級戦犯の合祀だけが問題なのかというとそう単純なものではなさそうだ。高橋哲哉著「靖国問題」。国内外の相反する遺族の感情、それから歴史、文化、宗教と章を分けて整理されているので靖国神社というものの位置を知るには絶好だった。

積み上げてホコリだらけになっている本をなんとか整理しようと思い立ったのだが、、、あちこちに引っかかって全然はかどらない。これは水上勉の「精進百撰」。あられ豆腐は水切りした豆腐をサイコロ状に切り、ごま油で揚げたもの。はんぺん豆腐は長芋と豆腐を合わせて茹でたもの。どちらもすぐにでも試してみたい。一般の料理本と違うのは材料と調理法が単純明快なこと。料理はこういうのがいい。
生まれた町のこと。家族のこと(ディランの祖母はトルコ出身だということを初めて知った)。ニューヨークでの暮らし。ジョン・ハモンドとの出会い。「わたしは嘘のなさを評価する」(ハモンド)。ボブ・ディランという芸名を選んだいきさつ。ウディー・ガスリーとのつながり。一人のミュージシャンの誕生にすぐそばで立ち会っているようで、とにかく面白い。
「OH MERCY」はダニエル・ラノワとディランとの幸福な共同作業から生まれたものだと思っていたら内実はまるで違っていた。かなりの難産だったようだ。あらためて聴きなおしてみて緊張感のある音のわけが少しは分かったような気がした。
油井正一、野口久光、青木啓の大御所ジャズ評論家から服部良一、前田憲男、梅津和時といったミュージシャン、さらには立松和平、川本三郎、河野典生、それから四万田犬彦、吉田ルイ子、藤岡琢也、北中正和、矢吹申彦、鈴木志郎康、諸井誠、奥成達、、、。多彩なメンバーが語るザ・ベスト・オブ・ジャズ「101人のこの一枚」(音楽出版社今月新刊)。
驚くのはこの中になんとわたくしメも紛れ込んでしまったのだ。こんな企画とはつゆ知らずホイホイとへたな文章を書いてしまった。恐れ多いことでありました。「100人+部外者1名」。タイトルを正確に書けばこうなるか。
私事はさておき、この本の面白さはいわゆるジャズの名盤セレクションではないこと。それぞれの人たちが人生の中で出会った一枚のジャズアルバムについての「思い入れ」を書いているので、クセのある選盤ながら当時の気分が色々とよみがえってくる。個人的にはアルバート・アイラー、アート・アンサンブル・オブ・シカゴが数枚ずつ入っているのがうれしい。
ジャズが過去形で語られるいま、あらためてジャズとはいったいなんだったのか、そんなことも考えさせてくれる一冊。冒頭の相倉久人、平岡正明両氏の対談も面白い。

詐欺師、ペテン師、酔っ払い。戦後の焼け跡、闇市の時代を生き抜いた少年は終生「怪物」を追い求めていた。東京オリンピックから大阪万博へと続く経済成長と近代化の流れも、それとはまったく正反対の裏返しの地点から眺めていたに違いない。
近代だの合理主義だの。民主主義だの正義だの。あるいは健康とか明るさとか。夢とか希望とか未来とか。そんな言葉の持つ危うさ、胡散臭さをなによりも感じておられたのだと思う(これらの言葉って、今にして思えば「アメリカ教」の布教言語だったといえなくもない)。
この本は20代の頃、引越しの手伝いに行った時にいただいたもの。ただ田舎から出てきた「近代」青年(ワタシのこと)にとっては難解だった。今なら少しは、、、。
怪物を追っていた少年はついに自らが怪物となり、これから何度でも甦り続けることだろう。怪物は不死身なのだ。
種村季弘さん。71歳。合掌。

今読んでいる本、池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」。南の海に浮かぶ美しい島を舞台に繰り広げられる神話的な物語。旧日本軍をめぐる戦後の現代史のようでもあり、また国家論のようでもある。しかしそうしたストーリーもさることながら研ぎ澄まされた文章が何より心地良い。
忙しいときに限ってこういう本にはまってしまうのだ。テストをひかえた受験生と同じか?

「心のノート」という教材があるらしい。全国の小中学校で配布されているとか。国(文科省?)からこどもたちへの「心」のプレゼントだって。取りまとめたのは河合隼雄。アブナイナ。
学校がますます息苦しくなってきているようだ。昔だって(ン十年前)けっして居心地のいい場所ではなかったが、今や生徒だけでなく教師までもが悲鳴をあげているのではないだろうか。日の丸、君が代をめぐるイシハラ東京都の動きは何だろう。
教職員に対しては処分で脅し、こどもにはやさしさをまとった「心」をプレゼント。なかなか巧妙だ。
21世紀のナショナリズムは戦前のような粗野な硬直したものではなく、いつのまにか心の中にひっそりと静かに忍び込んでくる、やさしく甘美な幻想なのだ。
高橋哲哉著「心と戦争」を読む。

晴れてはいてもどんよりと靄がかかってすっきりしない日が続く。昼間、海岸線を走ったが海と空の色が同じで水平線がはっきりとしない。丹沢の山なみも白くかすんで見えなかった。
いつのまにか宮部みゆきが増えている。ミステリーや犯罪モノなのに登場人物の中に根っからの悪人というのが出てこない。その辺が読後感の気持ちよさにつながっているのかな。下町育ちの善人作家と言うべきか。

やはり睡眠不足はよくない。今日は朝から頭が重く、調子が出ない。
網野善彦さんが亡くなられたとのニュース。「日本社会の歴史」を読んだのは何年前だろう。まえがきにある通り、この本は”日本列島における人間社会の歴史であり、「日本国」の歴史でもないし、「日本人」の歴史でもない。”
国家的な視点からみる硬直した歴史観とは違い、ヒトの視線で見る祖先の歴史はしなやか。仕事もひと段落したので宮部みゆきを中断して今日はこの本を読み返している。

広田行正、千悦子夫妻から共著になる新刊「湘南ちゃぶ台ライフ」が送られてきた。東京から海の見える家に越してきた家族の生活誌。
かつては日本中どこにでもちゃぶ台があった。それがいつしかテーブルやこたつに変わり、部屋の用途が固定化され、空間を自在に使い切る知恵もなくなった。
湘南といえば洋風の生活を連想する人が多いかもしれないが、ところがどっこいちゃぶ台は生きている。近くの知り合いにも何人か使っているひとがいるが、共通しているのは部屋が片付いていること。無駄なものがなく、掃除が行き届いている。モノが暮らしを変える、ということも言えるかな。
それにしても広田さんの写真は本職だけあって(水中写真家)どれもうまい。奥さんの文章も肩の力が抜けていて感心。湘南的スローライフを知るには絶好。教えられることも多い。うちも引っ越したくなってきたな。

ダリウス・キンゼイは20世紀初頭のアメリカで森林伐採に関わる人々を精力的に撮り続けた写真家。「森へ」と題された写真集には奇跡的に保存されていたガラス乾板から再生された彼の作品が集められている。
鋸と斧だけで直径数メートルもの大木を次々と切り倒していく男たち。日本であれば御神木となるべき大木の森がこうして消えていく。大きな切り株の中には下をくり抜いてそのまま住居になっているものさえある。縄文杉の比ではない。これが資本主義によるアメリカの開拓だ。
人間の意志と欲望のすさまじさ。と同時になすすべもなくそれを受け入れ、失われていく森の痛ましさ。人間の営み。森の営み。生まれてはいつか死にゆく生命の悲しさ。言葉では伝えきれない写真の力がここにある。

横浜の養護学校に勤めているMさんから日本の陶磁全集をいただいた。昭和51年に中央公論社から出ている全20巻。二重の箱に入っていてずっしり重い。選ばれているものが粒ぞろいで、写真もいい。今どきこんな贅沢な本造りは出来ないだろう。
監修は谷川徹三、川端康成。不思議なことに谷川さんのお孫さんとも川端さんのお孫さんとも知己を得ている。こんな縁もあるんだな。