久しく電車に乗ってない。近郊の満員電車は御免だけど長距離列車ならいいな。夜行列車に乗って夜明けに知らない町に降り立つ。ホームで思い切り深呼吸をして、地図を広げ、歩き出す。
冬の中休みも明日までか。水曜日からはまた厳しい寒波の予報。
新しく取り寄せた有田の磁器土にようやく慣れてきた。焼き色がよければこれをメインに使うことになるかも。
修善寺の地名の元となった修禅寺の境内。老大木の枝振りを見ると西風が相当強い地域のようだ。駿河湾から山を越えて吹き降ろす谷風とかあるいは台風とか。
修善寺は名前はよく知られているわりに温泉場自体の規模は小さい。高級旅館がいくつかあるけど廃業した旅館も目に付く。狭いメインストリートは開いている店のほうが少なく、寂れた印象は否めない。
今年2月に部分開通した伊豆縦貫道。今回初めて使ってみたけどこれは予想以上に便利。とにかく東名沼津インターから沼津、三島の街中を通ることなく修善寺まで直行できるのだな。将来的には下田まで計画されてるみたいなので今後は伊豆半島の人、モノ、土地などの動きが大きく変わるだろう。
小田原まで出たついでに箱根で温泉でも、、、と思ったけど、どうせならもう少し足をのばしてまだ行ったことのない温泉場へ、ということでなんと修善寺まで来てしまった。伊豆縦貫道ができてアクセスは格段に良くなっている。以前より30分以上は短縮されたんじゃないかな。小田原から車で1時間ほど。これだったら箱根の山道で渋滞に悩まされるよりよほどいい。
筥湯(はこゆ)は修善寺で唯一の外湯(共同湯)で料金は350円。檜の浴槽に透明な温泉が溢れていて満足度高し。紅葉の季節は散歩を兼ねてまた行ってみたい。
年末から信州へ行ってきた。何年ぶりかな。去年は信州どころか関東圏から一歩も外へ出なかったし。いつのまにかすっかり出不精になってしまっていた。いかんいかん。
伊東市街の外れ(熱海寄り)の国道沿いにこんな共同湯があった。源泉かけ流し「汐留の湯」。裏道に入って車を止め、よく見たら区外の方も歓迎とある。ちょうどよかった、温泉なんて久しく入ってなかったのだ。
中は銭湯のような作りで真ん中に四角い浴槽があり、熱いお湯が下から勢いよく湧き出ている。無色透明でにおいもなくとろっとしたお湯。入浴料250円也。これはいいところを発見した。伊豆の行き帰りに(めったに行かないけど)楽しみが増えた。
明日はいよいよ陸山会(小沢一郎)裁判の判決日。この結果はこれからの日本の行く末を大きく左右することになるな。中身はまったくの冤罪であって無罪以外の判決はありえないけれども、それでは海の向こうが承知しないんだろう。裁判というのは戦いの場ではあるけれどもこの裁判は双方の背景が大きすぎる。戦いというよりはむしろ戦争と呼ぶべきかもしれない。
伊豆半島は地図で見るより広く感じる。道路が狭く曲がりくねっていてアップダウンも多いため地図上で想像するよりはるかに時間がかかるのだ。
写真は伊東市内の田舎道で見かけた馬頭観音。観光地や別荘地を抜ければこんな石碑も多い。
療養中の友人の見舞いに阿佐ヶ谷へ。着いたら本人は昼間からビールを飲んでいた。あれっ、いいわけ?五月の風の中で飲むビールはたしかにうまいけど、、、ま、いいか。部屋の中には色とりどりのビーズ。大都会の仙人は極彩色の夢を見る。
午後から箱根の成川美術館へ。平岩先生(日本画)の特別展の最終日に間に合った。どんな分野であれ一人の作家の変遷を見るのは刺激になる。富士山の上の白い雲は最後まで消えず。帰りは旧街道を通って宮ノ下の太閤湯でひと休み。途中ではすでに駅伝の練習が始まっていた。
伊豆半島の付け根にあたる沼津市南部の口野というところへ行ってきた。紹介された民宿旅館で目的はもちろん駿河湾の魚。着いたときはすでに夕暮れ時。海には厚い靄がかかり島影の先はかすんでなにも見えなかった。
トルコはアジアなのかヨーロッパなのか。共和国建国から八十数年、トルコは現在EUへの加盟を申請中だが果たしてヨーロッパ側が認めるかどうか、、、。昨日のニュースではこの件に関するEU協議が始まったとのこと。年内には結論が出るのかな。経過を見守りたい。
トルコ語は一応アルファベット(ラテン語)表記なので親しみやすいかな、と思ったら大間違い。案内板から数字までまったくヒントになるものがない。つまり表記(文字)はヨーロッパでも音(言葉)は別文化。もっと分かりやすく言いかえれば頭はヨーロッパで体はアジア、ということになるだろうか。けっして他人事ではないな。
イ・ゲジェレル(iyi geceler)とは「おやすみなさい」の意。このへんでひとまずトルコの写真と旅行記を終わります。
シルケジ駅の猫が出たついでに構内の写真も一枚。オリエント急行が廃止され国内の主要交通の座もバスに取って代わられた今では構内にも人影はまばら。くたびれたローカル列車の止まるホームに往時の繁栄を偲ぶのみ。
オリエント急行の終着駅だった旧市街のシルケジ駅。駅前はちょっとした広場になっていて大理石が敷かれている。アガサ・クリスティーも歩いたであろうその広場にこの猫はいた。夕暮れ時の雑踏の中、人ごみをものともせず悠然と歩いていた。むしろ人の方が遠慮して遠巻きに歩いているようだった。オヌシはこの広場の主か?そのくらい威厳があった。目が会ったとたんに居ずまいを正し、きちんと挨拶してくれた(たぶん)。鋭い目で瞬きもせず見つめられると「おまえは何者か?」と問われているようで、わが身をこそ揺るがるれ。
数日後、ここを通った時にもまた近づいてきてなにやら言いたげだったな。もしかしたら気に入られちゃったのかも。
「ニャオー」というのを日本語に翻訳すると「ねえ、、、」というのに近い。「ねえ(ニャオ)、おなかすいたよー」「ねえ(ニャオ)、さむいよー」「ねえ(ニャオ)、うるさいよー」「ねえ(ニャオ)、、、」「ねえ(ニャオ)、、、」
要するにすべて「ニャオー」の一言で済ませているようだが、実はその「ニャオー」の発音、アクセントのわずかな違いで後に続く部分がわかるのだな。ちなみに人間語は数百、数千、数万とありますが猫語は万国共通なのだ。初級猫語講座発音編はこれでおしまいなのだ。
赤塚不二夫サン、大丈夫かな?
一般的に海に近いほど猫の数は増えるようだ。内陸のカッパドキアでは一匹も見なかったのに海辺のイスタンブールではそこらじゅうにいる。食糧事情によるのか、それとも気候のせいなのか。グランド・バザールの隣ベヤズット・ジャミィにて。
メヴラーナ派の墓石は上に大きな帽子がのっているのが特徴。気をつけて見ればイスタンブール中にこのタイプの墓がかなりあるので、この宗派は広く普及していたものと思われる。しかしコンヤのところでも述べたとおり1920年代に教団は解散させられている。トルコの近代化(ヨーロッパ化)にとってイスラムは障害になると考えられたのだろう。ただ政教分離はともかく、教団まで解散させる必要があったのかどうか。
ひとことも話さなくてもその存在だけで場に力を与えうる人。儀式のあいだも黒服を脱ぐことはなく舞手の動きをじっと見ているだけ。この人が実はセマーの中心なのだ。傍らの信者の姿を見れば右手は心臓の上、左手はおなかのあたりに置いて頭を下げている。これが祈りのかたちのようだ。
舞手たちはセマーの前後には両手を肩に置いて気持ちと体を静める。ダンスの後でもだれもよろける人はいない。座禅は足を組むがセマーは腕を組むんだな。ちなみに舞手のことはセマーゼンと呼ぶ。これってただの偶然?
コンヤでは見ることができなかったメヴレヴィー教団のセマー(旋舞の儀式)をイスタンブールで見ることができた。15人ほどの楽団のゆっくりした歌とメロディーに合わせて舞手(修行僧)がぐるぐる回っていく。右の手のひらは上(天)に向け、左は下(地)、頭はわずかに右に傾けている。回り方は左足を軸にして一回転づつ、回転の方向は上から見て反時計回り。
回転とともにスカートがたなびき、大きな花がいくつも咲いたように華やぐ。見ているぶんにはアイススケートのようでもあり、あるいは遊園地のメリーゴーラウンドのようでもあるが舞手のほうは目を閉じて没我状態。日本でいえば空也上人、一遍上人が広めた踊念仏に近いのではないかと思われた。ちなみに開祖のメヴラーナ・ジェラレディン・ルーミー(1207〜1273)は一遍(1239〜1289)と同時代の人。
最後に登場したこの人は他のダンサーとはずいぶん違っていた。出てきたときから目は一点を見つめたままでニコリともしない。ときには目を閉じて踊っていた。まるで踊りの求道者。気楽な観光客気分でいたらパシンと撥ね返されるような気品と気迫があった。
男社会のトルコの中でベリーダンサーは女の中の女、希望の星でもあって女優や歌手として活躍している人も多いと聞いた。当然社会的地位も高い。この人はファッションモデルとしても一流になれそうだし、アクション映画のヒロインでもおかしくない。もしかしたらこの一座の座長なのかも。
ベリー・ダンスというのは曲芸のような踊りかと思っていたらぜんぜん違っていた。もっともここは観光客を相手にした会場なので本来の踊りとはだいぶ違うのかもしれないが。バックにいる楽団の太鼓のリズムに合わせて激しく腰を振る。そのとき上体はまったくブレない。甲高い太鼓の音色とハイヒールを別にすれば踊りそのものはハワイのフラダンスによく似ている。こうした踊り手が4人ほど登場し、その間にはトルコ各地の民族舞踊が披露される。いうなれば「トルコ民族芸能ショー」でもあるんだな。食事付きでもちろん酒も出る。
日本にもこういうクラブがあったら結構繁盛するのではなかろうか。沖縄から北海道までの歌や踊りをコンパクトにまとめ、お色気とユーモアをちょこっと付け加える。日比谷、赤坂あたりにあるといいかも。
色数は少なく、2種類の青に茶と赤。緑も入っていない。濃い青の部分は下絵なので筆あとが見える。また赤は朱に近く、その部分だけが盛り上がっている。おそらくこの色に焼き上がる土を使っているのだと思う。16世紀半ばころのイズニックタイルなので当然伊万里より古い。もしかしたら柿右衛門の赤はこの色を参考にしたのかもしれない。
リュステム・パシャ・ジャミィは内外装にイズニックタイルがふんだんに使われていてまるでタイル博物館のようだ。写真は入り口付近にある高さ2メートルほどの組み合わせタイル。図案化された草花文の大作だが残念ながら補修されていて図柄が合っていない部分がある(右下2枚)。
スレイマニエ・ジャミィから歩いて15分ほど。エジプシャン・バザールから続く雑踏の中にリュステム・パシャ・ジャミィはあった。ここもスィナンの設計。中庭はなく(もしかしたらバザールに占拠されたのかも)、入り口はバザールの中の狭い階段。探すのに苦労した。しかし中に入れば別世界。小規模ながら白を基調としたドームは珠玉のように美しい。
再びイスタンブール。ここは建築家ミマール・スィナンの代表作のひとつ、スルタン・スレイマニエ・ジャミィ(モスク)。ブルー・モスク(スィナンの弟子の設計)とくらべるとドームの直径は1メートル小さく高さは逆に10メートル高い。窓が小さいせいで内部は暗いが全体のバランス、細部の完成度ともにこちらのほうが優れている。完成は1557年。
7月7日、セルチュクからイスタンブールまでまたバスで10時間。途中ベルガマ(ペルガモン)やトロイなどもあったが気分が乗らずすべてパス。この辺は一人旅の気楽さ。足の向くままなんとやら。
ブルサを過ぎてからバスは幹線道路を離れ港へ。そのままフェリーに乗り込んでしまった。トルコ北西部の海岸線は入江が深いのでこれが通常のルートなのかもしれない。船の上では乗客が投げるパンくずをめがけてかもめが追ってくる。飛んでいるかもめをこれほど近くで見たのは初めて。手を伸ばせば羽に届いたかも。
ザクロの原産地はペルシャとか。日本に入ってきたのは10世紀ころのことらしい。赤紫色のガラス玉のような実をぽろぽろとかき出しながら口に入れたのはいつのことだったろう。酸っぱくて種が意外と大きかったな。
トルコは夏時間を採用しているので午後6時ごろになってもまだまだ日差しが強い。右のほうに積んであるのは瓢箪の親戚みたいな実というか果実。瓢箪と同じように乾燥させて肩のほうに穴を開け、花入れとして売られていた。
1920年代にトルコは隣国ギリシャと戦争をしている。この村にはもともとギリシャ人が住んでいたのだが戦後処理のひとつとしてギリシャとの間で住民交換が行われたとのこと。つまりここの村人がギリシャに移され、かわりにギリシャのテッサロニキに住んでいたトルコ人がこの村に移住してきたという。強引なやり方にも思えるが旧ユーゴスラビアで起きた事などを思えばはるかに平和的だったといえる。
「郵政改革PRのために、国と特別契約を結んだ竹中平蔵郵政民営化担当大臣の知人が経営するPR会社が提出したPR企画書の中に、郵政改革PRは、老人、女性など、“ちょっとIQの低い人々中心に進める”という一文があったのは有名な話だ(国会でも取り上げられた)。」立花隆のメディアソシオ・ポリティクス 第38回より引用
小泉政治の一番気持ち悪いところは何かと考えると、やはりその言葉だ。絶叫調のワンフレーズの繰り返しがどこから出て誰に向けられているのか。上記の一文を読んで得心がいった。
高学歴の連中を説得するのは時間もかかるし難しい。それよりは、、、ということなのだな。どちらも同じく一票は一票だから。
もちろんそうした社会的弱者のための改革を進めるというのであればそれは結構なこと。しかし小泉、竹中コンビが目指すのはそれとはまったく正反対のカイカクなんだナ。ワンフレーズを信じた人が一番裏切られる。そこが許せない。
シリンジェ村はセルチュク近郊の小村。なだらかな山に囲まれ、オリーブ、みかん、ぶどうなどが栽培されている。店には搾ったばかりのオリーブオイルや手作りの石鹸、それにトルコでは珍しいワインなどもあった。ここのワインは力強く野性的(というより荒っぽいといったほうがいいかも)な味。旅行中でもあり試飲だけで買うのはやめた。
カメラの前では決まって肩を組むトルコの子供たち。日本ではとんと見かけなくなったポーズ。田舎町でもサッカーは人気があり、ナカタ、ナカムラは彼らも知っていた。
いよいよ衆議院議員選挙が公示された。小泉政治を終わらせるために念力を込めて票を投じたい。
セルチュクの市内では水路橋と思われる遺跡の上でコウノトリが巣づくりをしていた。すぐ下には噴水がありカフェーのテーブルが取り囲んでいる。つまり一日中町の人たちに見守られながら営巣しているわけだ。雛はもうかなり大きくなっていて巣立ちも近いと思われた。
ヨハネで思い出すのはギュスターヴ・モローが描いたサロメ。絵のタイトルは「出現」だったか。たしか学生時代に開かれたモロー展で見た記憶がある(竹橋の近代美術館?)。聖書に題材をとった恐ろしい愛憎劇の中でサロメの前にヨハネの首が現れる場面。絢爛たる色彩によって残酷さは消え、官能的?な宗教画のようだった。
写真は聖ヨハネ教会の前庭に咲いていたバラ。サロメの物語がどこまで史実かは分からないが、ストーリーを重ね合わせると、この教会にはまことにふさわしい花に思えた。
エフェス遺跡から3kmほど離れたセルチュクの町にも遺跡、史跡がいくつか残っている。ここは聖ヨハネ教会。キリストの死後ヨハネはマリアとともにこの地に移り晩年を過ごしたという。残念ながら今は列柱、礎石、大理石モザイク、それにヨハネの墓所が残っているのみ。ここは高台になっていて遠くにはうっすらとエーゲ海が見えた。エフェス近郊には「マリアの家」というのもあるが真偽のほどは分からない。
ローマ期の美術というのはギリシャのイミテーションばかりだと思っていたがそれほど単純ではないようだ。たしかに模倣が様式と化したような眠い彫刻も多いが、なかには写真のようなリアリズム彫刻もある。ギリシャ美術が目指したイデア、神、美、理想といったものは薄れ、代わってここにいるのは泥臭い生身の人間。歴史は単純には語れない。
遺跡内のところどころに咲いていた花。写真をたよりに検索したらセイヨウニンジンボク(Vitex agunus-castus)ということが分かった。古代ギリシャ時代から精神安定作用のある薬草として広く使われていたらしい。都は滅んでも花は生きている。
キリストの生母マリアは神なのかそれとも人なのか。西暦431年に開かれたエフェス公会議ではマリアは神の母(生神母)と定められたという。この決定の背景にはこの地に根付いていたアルテミス信仰が影響したはずだとJ・キャンベルは述べている(「神話の力」)。
考古学博物館内のアルテミス女神像。やはりたくさんの卵?を下げ、足の周りには鹿などのレリーフ。
エフェスでやたらと目に付くのが卵。写真のような柱頭だけでなく梁にも天井にも、とにかくいたるところ卵だらけ。それはエフェスがキリスト教以前からアルテミス信仰(豊饒の女神)の地であったことによる。
エフェスはエーゲ海沿岸のローマ都市遺跡。神殿、劇場、競技場、図書館、それから住宅、浴場、さらには娼館、トイレなどが残っている。写真はオデオンと呼ばれる小劇場。都市の代表者会議や音楽コンサートなどに使われていたらしい。
見学に訪れていたのは10人前後の団体客ばかり。各国語のガイドの声があちこちから聞こえていた。フランス語、イタリア語、ドイツ語、韓国語。ただ日本語はなかった。
陽が落ちたマリーナにはヨットの帆柱によく似た照明灯が並んでいる。反射板を使った間接照明でヨットの帆やかもめの翼を連想させるデザイン。たしか東京でも見た覚えがあるが、どこだったか思い出せない。
古風な雰囲気を持つ大型の木造ヨット。こうした船はグループでチャーター(レンタル)するのに使われていて、料金は一人一日3千円ほど。この船だったら20人くらいは乗れそうだ。なんだったらこのまま世界一周でもできるかも。
コンヤから夜行バスで10時間(のはずが、トラブルが重なって実際には13時間かかった)。ようやく着いたのはエーゲ海沿岸の町マルマリス。ここからフェリーでロードス島(ギリシャ)へ渡る予定だったのにバスが遅れたため乗りそこねてしまった。おかげでその後の旅の計画が狂ってしまったが、まあよくあること。
マルマリスはヨットやクルーザーが港にずらりと並ぶ典型的なリゾート都市。初めて見るエーゲ海はたしかにエメラルド色。水も澄んでいて小魚も多い。
ルーミーは親鸞と同時代の人。イスラムの歴史の中ではスーフィーの系譜に連なる宗教改革者といえると思う。イスラム法(コーラン)によって人を外側から縛るのではなく、自己の精神的な充実をめざす。その意味では禅との類似性を感じるし、セマー(旋舞の儀式)からは踊念仏を連想してしまう。
「寛容は海のごとくあれ」ルーミーのこの言葉はあらゆる原理主義の対極にある。
コンヤはアナトリアの中心都市のひとつであり、旋舞で知られるメヴレヴィー教団発祥の地でもある。メヴラーナ・ジェラレディン・ルーミー(1207〜1273)を祖とするこの教団は20世紀の初めに解散しているが今なお人気が高いようで、市内のメヴラーナ博物館は参拝の人々で混雑していた。ここは霊廟でもあり、中にはルーミーの棺もある。
コンヤではセマーと呼ばれる旋舞を是非見たいと思っていたのだが、残念ながらこの儀式は12月のメヴラーナ週間以外は行われないとのことでDVDだけ買ってきた。(しかし10日ほど後にイスタンブールで目撃することができた。後述します。)
写真は博物館内の天井アーチ。複雑、精緻な装飾が見事。
キリスト教会内部には専門の絵師によるフレスコ画などもあるが保存状態は良くない。それよりひと目で素人の筆とわかるプリミティブな線描が面白い。この赤の顔料は弁柄なのか朱なのか分からないが、鮮やかに残っている。
洞くつめぐりの合間に足元を見ればこんな花も咲いていた。カラカラに乾いた土の上で小ぶりな花をいくつも咲かせている。おそらく夜の間に夜露、朝露をたくみに取り入れているのだろう。茎も葉も細く、花がなければ枯草と間違えてしまうかもしれない。
乾燥した内陸性気候で日差しが強く、日中は強烈に暑い。この暑さを体験してみれば岩山に掘られた穴の意味が良く分かる。荒涼とした大地に大きな木はなく、石を切り出したりレンガを積み上げて家を作るより岩を掘ったほうがはるかに手っ取り早かったのだろう。もちろん敵に備えるとか、あるいは貧しさということもあったと思うが。
都合のいいことにこの辺の岩は火山灰が固まったような比較的やわらかいものが多い。これなら素人でも掘れそうだ。かくして住まい、倉庫、家畜小屋、あるいは集会所、教会として無数の岩穴が掘られ、岩山の風化とともにそれらが剥き出しになって現在の景観を作っている。
この山は集落というより要塞のように見えた。悲しいことに数年前、この岩山をロッククライミングで登ろうとした若者が滑落死したとのこと。日本人だったらしい。
サフランボルからアンカラを経由して8時間。中部アナトリア、カッパドキア地方のギヨレメ村。これまで写真や映像でしか見たことがなかったが、実際に来てみるとやっぱり異様。町並みの中にこんな岩がニョキニョキと突き出ている。子供のころの砂遊びの光景がその何百倍ものスケールで目の前に現れたようで、唖然とするばかり。
乗務員は運転手の他に車掌が二人(たいていは男)。客は赤ん坊から老人まで年齢も身なりもさまざま。スーツ姿のビジネスマンもいれば二人分の座席に子供3人と大荷物を抱えて乗り込んでくる母親もいる。座席は満席のことが多く、外国人はめったにいない。ただ日本人と分かれば好意的な反応を示してくれる人が多いので、その好奇な視線に耐えられる限りはラクかな?
問題は休憩。個々のバス会社は独自の休憩所を持っていて、そこでしか休憩を取らない。そのため間隔が長く、昼間で3時間に一回程度。夜行の場合は5時間に一回ということもあった。
鉄道が発達していないトルコでは代わりにバス路線が充実している。バス会社の数も多く、過当競争のためか意外とサービスもいい。走っているのはほとんどがベンツのリムジンバスで座席も指定。車内ではお茶やお菓子も出る。
土産物屋にはさまれて革職人さんの店。アップルティーを飲みながらトルコ語辞書を片手に身振り手振りのコミュニケーション。もどかしさを感じつつも楽しいひととき。作っているのは馬具からベルトまでいろいろ。窓際に並んでいるのは銃のホルスター。誰が買うのかな?
サフランボルは職人の町でもある。道路がわずかに広くなった一角に6軒ほどの鍛冶屋が集まっていた。作っているのは鍬やナタなどの農具を中心に鍋や蝶つがいなどの家庭用具も。中を覗いたら気持ちよく見せてくれて写真も撮らせてくれた。デジカメだと撮った写真をその場で見せられるのがいい。
昼下がりのパン屋の店先。午前中はにぎやかな店も午後になれば静か。この小さな集落にこんなパン屋が3軒もあった。
焼かれているのはなぜかフランスパンばかりでしかもこれがうまい。さらにトルコではどこのレストランへいってもパンはタダ。好きなだけ食べられる。その理由は郊外へ出てみれば分かることだが、広大な国土に見渡すかぎりの小麦畑。トルコは農業国なのだ。
丸瓦だけで組まれた屋根。形も一定ではなく色もまちまち。おそらく始めに円筒形を作り、それを縦に切って焼いたものだと思う。焼き色から見て窯の効率も悪そうだ。しかしそのぶん手作り感はたっぷり。計画性のない並べ方にも味がある。
イスタンブールから長距離バスで7時間。サフランボルはアンカラの北、黒海沿岸に近い山間の町。世界遺産に登録されてから10年以上経っているがさほど観光地化は進んでいない。石畳の上に木と土壁の家並みが続き、さびれた街道町の風情が残っている。
ガラタ橋名物のサバサンド。三枚におろしたサバを鉄板で焼き、トマトや玉ねぎなどとともにパンにはさんで食べる。ほかにもムール貝、果物、ナッツ、スナックパン、それにジーパン、靴、時計、おもちゃなどいくつもの露店がひしめきあい、この船着場周辺はいつも縁日状態。街はこれだから面白い。遠くに見えるのが旧市街と新市街を結ぶガラタ橋。
アヤソフィア内の2階回廊へ通じる狭い通路。石畳の表面が磨滅し黒く光っている。創建以来どれだけの人がここを歩いたことか。
2階回廊は大理石の床が傾き、ところどころにうねりもあってかなり不安な状態。イスラム国なだけに、キリスト教に関わる施設の管理にはあまり力が入ってないもよう。
ブルーモスクと高さを競うように対峙して建っているのがアヤソフィア(聖ソフィア寺院)。しかし完成はこちらのほうが千年以上古く西暦537年。しかもドームの高さも直径もこちらのほうが大きい。ギリシャ正教の大本山だったものが後にイスラム教のモスクに改修され、現在は博物館となっている。
ブルーモスクが青のイズニックタイルで装飾されていたのに対し、こちらは金のモザイク。聖母子の背景など黄色く見えている部分はすべて金。おそらくタイルに金泥を塗ったものと思われるが、オイルランプに頼っていた当時、金の輝きは今以上に絶大だったに違いない。この金の使い方は日本の琳派やアールヌーボーを思い起こさせる。
スンネット(割礼)のお祝いの晴れ着を着た幼い兄弟。ちょっと緊張気味?
トルコは厳格なイスラム国ではないのでだいぶ簡略化されているとのことだが、日曜日のモスク周辺では晴れ着姿の子供とその親族らしき一群によく出会う。町中にはスンネット専門の衣装屋(貸衣装か?)もあった。子供の年齢は特に決められてはいないようで10歳過ぎくらいまでに終えればいいらしい。七五三や端午の節句もルーツはこの辺にあるのかもしれない。ブルーモスク内にて。
政教分離が進んでいるトルコではあってもジャミィ(モスク)はいまだに街の中心。小さな田舎町へ行っても必ず一つや二つのモスクがあり、朝の4時半からアザーン(礼拝の呼びかけ)が流れてくる。イスタンブールは大都会なのでそれこそ町中いたるところモスクだらけ。その中でもここスルタン・アハメット・ジャミィ(ブルーモスク)はイスタンブールの象徴ともなっていて、観光客だけでなく礼拝に訪れる人も多い。大ドームの高さは43m、幅27.5m。建造は1616年。
イスタンブールはアジア側とヨーロッパ側の新市街、旧市街の三つの地域に分かれていて、それぞれが海によってへだてられている。橋はかかっているけれど車の渋滞がひどいのでVapor(ヴァプル)と呼ばれる渡し船は今でも重要な市民の足。運賃は1リラ(約80円)。この船が気に入って何度も乗った。夕暮れ時のイスタンブールの街を船の上から眺めるのはいい。遠くに見えるのが新市街。ボスフォラス海峡をヨーロッパ側からアジア側へ渡っているところ。
今回の旅行中に買ったサズという楽器。旧市街の船着場で盲人の演奏家が弾き語りをしているのを聞いて欲しくなってしまった。長さは1メートルほど。弦は7本だが2本、2本、3本、と三つのグループに分かれているので演奏上は3本弦と同じに扱える。3本弦ならギターの半分なのでこれはやさしそうだと思ったのだが、、、。
簡単な解説書を見てもチューニングの方法がたくさんあってなにが何だか分からない。しかもフレットの間隔も不規則で固定されてない。ウーム。かなり手ごわそう。
眺めているぶんにはいいが実際に自分が乗るのは苦手。プロペラ機ならまだいいがジェット機の離陸の角度は不自然だと思う。エンジンのパワーで強引に飛び立っている。自分で操縦していればその加速感も結構楽しめるかもしれないが、そうもいかない。要するに自分の運命を見ず知らずの他人に委ねるということが気にくわないのだナ。
列車に乗るのは好きだけれど首都圏の満員電車は苦手。だから東京へ出かけるときは空いてる時間帯を考え、土日に行くことが多い。
東海道線の下りの最終は東京駅発23時54分。その前に大垣行きの普通列車がある。学生の頃何度か乗った。これで行くと京都には朝の8時前には着くはず。駅前の食堂で鯖の味噌煮などを食べ、東寺へ。季節は人の少ない冬が良かったかな。大垣行きと聞くたびにまたひょいと乗ってしまいたくなる。
午後から箱根を越えて三島まで。7月17日から三島市のギャラリーで個展を開くことが急遽決まったので、そのDMの打ち合わせ。
行きも帰りも箱根は濃霧。気温も低く19度。久しぶりの遠出だったのでちょっとした気分転換にもなった。帰りは湯本のフジヤホテルで温泉&サウナ。半年分の汗を流し、9時前帰宅。ビールがうまいデス。
今年に入って周囲の人の動きが激しい。一昨日の日曜日は親戚の葬式。今週末には兄がトルコへ赴任。甥のJ君はロシア経由でヨーロッパへ一人旅。今ごろはシベリア鉄道の車内のはず。これは先を越されてしまった。私はどこへも行かず(行けず)、一人、ロクロを回す日々。
春には旧知のN君とHさんの結婚式。写真はその引出物にする花瓶。ロクロ周りが落ち着いたら調子もいい。おまけに静かなロクロなので仕事場でも音楽が聞きたくなってきた。
今日は箱根で忘年会なので少し早めに出て湯本の町を歩いてみた。快晴の日曜日。駅前も商店街も混んでいる。多いのが同窓会帰りらしき年配者のグループ。そしてリュックを担いだハイキング帰りの人達。家族連れの姿はほとんど見なかった。
ひとつ裏通りに入れば観光客の姿はない。古い民家の板戸が澄んだ西日を浴びて、木目をやわらかく浮かび上がらせていた。